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イエスよ来てください Komm, Jesu, komm! 23日の朝書いています。 今朝は寝坊したので朝食は遅くなって、NHK FM の「ビバ!合唱」(再放送) を聞きながらでした。 この番組のテーマ曲は バッハのモテトの第1番 Singet dem Herrn ein neues Lied (「主に向かって新しい歌を歌え」 詩篇第96篇 他) です。 そしてきょうの演奏曲目の最初は同じバッハのモテトの第5番 Komm, Jesu, komm! 「イエスよ来てください」 でした。
そのうちに、「あれっ、この『イエスよ来てください』の文言、きのうどこかで見た覚えがある」と気づき、一所懸命に思い出しました。 きのうは、お彼岸だからというわけではないけれど、私の両親の墓に、お参りではないけれど、掃除を兼ねて行き、その後娘夫婦の誘いで件の「高瀬」で最高のうなぎを味わい、そして娘の嫁ぎ先のご家族と歓談して、国道16号線で途中コンビニに立ち寄って戻ったのでした。 この1日の活動で「イエスよ来てください」は一体、どこで見たのだろうか。
そうです、多磨霊園でした。 私はカメラをぶら下げて周囲の墓見物をしたのでした。 そのうち両親の墓のすぐ近くの一つのキリスト教式の墓の石に刻んであったのが、この「イエスよ来てください」でした。 この言葉の後にもう一言なにやら書いてありましたが、記憶にありません。
このバッハのモテト Komm, Jesu, komm! は後半のアリアで
......Welt, zu guter Nacht! Eilt gleich mein Lebenslauf zu Ende, ...... ......世界よさようなら、私はもうすぐ死にます...... と続きます。 「イエスの元に向かう喜び?」を表すのでしょうか。 このモテトの歌詞はヨハネの福音書の第14章第6節の「......わたしは道であり、真理であり、命である。 だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。......」 (1954年 日本聖書協会版) に基づいていると解説されていますが、このモテトの歌詞となかなか結びつきません。
「イエスよ来てください」という言葉は新約聖書の最後の最後、ヨハネの黙示録の第22章の第20節に出てきます。 ちなみに新約聖書は次の第21節「主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように」で終わりです。 だから、聖書の最後から2番目の言葉というわけです。
バランス上 「仏の元に向かう喜び」についても考えました。
本来の「成仏」とは悟りを開いて仏陀になることです。 仏教では人は死んだら生前の行いに従って行き先が極楽と地獄に分かれるはずなのが、「日本の仏教」ではそれは受け入れずに、人は誰でも死んで49日目に仏になるとされているのです。 面白いですね。
「彼岸」を多くの日英の辞書で "equinoctial week" (春分・秋分の週) としています。 外国人に "What is Higan?" と聞かれて、ただ "an equinoctial week" と答えてもなんにもなりません。 この言葉を本来通りに訳すと、"the other shore" ですが、この "other" 「あちら」 とは 「煩悩を脱した境地」、サンスクリット語の निर्वाण nirvãna の音訳である「涅槃」、もっとはっきりいうと普通の人にとっては物理的な「死」そのもののことです。 春分をはさんだ今週のイベント「彼岸会」は太陽が沈む真西の方向にある極楽浄土に思いを馳せた「日本の仏教」独特の行事ですから、ただ「春分の週」と、天文学上あるいは科学的な暦法での言い回しではナンセンスもいいところです。 この週は「極楽に行きたい、極楽に行きたい」という気持ちを表す時期ですから キリスト教徒が死を間近にして「イエスよ来てください」と思うところと相通ずるところがある、と考えるのは無理でしょうか。
22日の画像です。 画像をクリックすると大きい写真が見えます。
「東京市」について調べてみました。 1889年(明治22年)から 1943年(昭和18年)の間に存在し、今の東京都区部(23区)に相当します。 この多摩霊園は小金井市と府中市にまたがる広大な土地ですが、東京市の人口増加に伴い市内の墓地では不足することから、市外にも墓地を作ることになり、1923年(大正12年)に当時の小金井村と多摩村に開園したものです。 だから「東京市」というのはそれほど古いわけではなく、むしろ「東京都」の方が思ったより新しい行政単位ということに気がつきました。 この行政単位の変更は、太平洋戦争の戦況悪化により内務省による「内務省→東京都長官→区長」による首都圏の統制を強化するためです。 現在の大阪の動きもなにやらきな臭いですね。
多磨霊園の契約書類の中から、父がこの墓地の使用権を購入したときの書類を見つけました。 購入の時期は1933年(昭和8年)に生まれてすぐ亡くなった一番上の兄のためと聞いており、使用許可が昭和10年(1935年)2月4日となっていますので、その当時の資料です。 終戦前の東京大空襲で目黒の家は完全に焼失したのに、この書類が残っているのは、重要書類として疎開先の鎌倉に持ち出していたからかも知れません。
最初は東京市の多摩墓地の使用条例と各種規程です。 掃除料は前払いで1年間から20年間まで規定されています。 この掃除料規程の第4条に20年分を収めるとその後は払わなくてもよいと書かれていますので、その時に上の「永掃」のエンブレムが取り付けられたようです。 この掃除は1年間に20回もしてくれていたようです。 さて、この規程、今は有効ではないようです。 下の4つの画像はクリックすると大きい画像が見えます。
下の2枚は田代家という石屋さんのパンフレットです。
最初の兄の時は屍櫃 (カラヒツと書いて「かろうと」と読む) と骨壷の埋葬だけを注文したと思われます。 私自身はこの墓地があることはうすうす知ってはいたものの、初めて実際に見たのはずっと後でした。 1976年に父が死んでここに埋葬することにして見に行ったところ、場所もなかなか分からず、見つけたときにはここは他の墓に囲まれた2メートル四方の空き地だったのでした。 それで、この田代家さんがまだあったので、母が新しい屍櫃と周りの石組みとちょっとした植木を田代家さんに注文したのでした。 下の写真が墓石を置く前の形です。 1982年8月撮影。
しばらくはその状態でしたが、あるとき母がどこかで手ごろな大きさの自然石を見つけて気に入ったので、それを墓石としたのです。 父と母には「○○家」という考えも、仏もキリストも神もないので、今の今までこのような宗教なしの個人の墓となっています。
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