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2013319()

キロロスキー・京大未臨界実験装置  Kiroro-ski, Subcritical experiments device


35日から23日でいつもの仲間と北海道のキロロスノーワールドへ行った時の滑走動画が仲間の一人によって YouTube にアップロードされていますので、遅くなりましたが掲載します。

 

この上の動画を撮影した尾藤峯夫さんが滑る姿を私が撮影し YouTube にアップロードしました。 79歳とは思えない見事な滑りです。

 

 


今日の古い8ミリフィルムの再生は、今からちょうど50年前に京都大学の宇治(黄檗)キャンパスに設置された「未臨界実験装置」の1963(昭和38)9月の完成披露式の映像です。

 

 

 

この映画を制作した、私の姉の夫の父 (姉の義父というのでしょうか) は元住友金属工業の技師で鉄道車両の台車の設計などを手がけ、この当時は住友原子力工業で、この映像にある京都大学の原子力実験装置の建設の責任者だったと聞いています。 またこの後に東海村の原子力研究所に建設された日本で最初の発電用原子炉 JPDR や大洗に建設された材料試験炉 JMTR の建設にも住友原子力工業の責任者として携わったと聞きました。

 

さて、「未臨界実験」とは現在では「未臨界核実験」と誤解されやすい言葉ですが、同じ原子力でもこちらは平和利用の基礎研究のための実験です。 中性子発生装置で作られた中性子をウランなどに衝突させて、核分裂を起こすところまでは一緒です。 しかしその核分裂は継続せず、その核分裂の過程に起こるいろいろな事象を捉えて研究することを目的とする実験装置です。 臨界を越えて核分裂が継続するものを原子炉と言って、京都大学はこの同じ年の1963年に大阪府の熊取町に関西の大学の共同研究のための京都大学原子炉実験所を開設しています。 こちらはれっきとした原子炉で、現在でも研究に使われています。

 

下の写真は私が大阪大学の原子力工学科に在学中に大阪府枚方市の京阪電車の御殿山駅に近い大学の敷地に設置されていた「未臨界実験装置」前で196211月に同級生と共に撮影したものです。 原子力工学科の1期生です。 左から3人目は科学技術庁事務次官にまで登りつめ退官後は日本原子力研究開発機構の理事長を務めた岡崎俊雄君です。 その他の同級生もみなそれぞれ原子力の研究開発、特に黎明期の原子力発電に深く関わっていました。

 

画像をクリックすると大きい写真が見えます。

 

ということは「未臨界実験装置」は京大よりも阪大の方が先にできたのです。 京大の宇治市黄檗のキャンパスは旧陸軍の火薬庫だったところを戦後に占領軍に接収されて、返還後に研究施設のために転用されたのでした。 面白いことに、一方の阪大の枚方学舎も旧陸軍の大阪砲兵工廠香里支所で製造した砲弾を貯蔵していた禁野 (きんや) 火薬庫の跡地で、その広大の敷地の中は土塁に囲まれた場所もあり、放射線を扱う実験にはうってつけだったのだと思います。 昔の軍の建物をそのまま再利用していました。 ここでは主に原子力工学に関する実験を実施していました。 工学部全体のキャンパスは大阪市中心部の都島区東野田にありました。 現在は大阪市立東高校のある場所です。 私が卒業した直後の1968年に吹田の新しいキャンパスに移りました。 下の写真は当時の枚方学舎です。 これらすべての建物は戦前の火薬庫の名残りです。 大学院生や研究生の多くはがらんどうの建物の中に適当に自分の部屋を作って寝泊りし、実験に携わる学生と教員は彼らの手作りの賄い食を一緒に食べていました。

 

画像をクリックすると大きい写真が見えます。

 

この場所が現在どうなっているのか調べました。 住宅都市整備機構の中宮第三、第四団地、枚方市中宮浄水場、小松製作所、関西外語大学などです。 小松製作所をめぐっては、枚方事件というのもありました。 1952年、第二次大戦終戦後のGHQ占領直後、この土地の払い下げを受けた小松製作所の朝鮮戦争への加担をめぐる暗い事件です。

 

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