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2013117()

インド象 Indozo


この日記ではタイトルを日本語と英語の双方で書くようにしています。 きょうの英語のタイトルは "indian elephant" ではなく、日本語のアルファベット表記です。  なんで、と思われるでしょうが、こういうことです。

 

昨日までに「旧約聖書」の「サムエル記上」を読了しました。 この書の後半は初代イスラエルの王サウルと、預言者にして第2代の王ダビデの活躍と両者の軋轢の物語で、ヨーロッパではそれを題材として多くの芸術作品が生み出されました。 ヘンデルのオラトリオ「サウル」もその一つです。 音楽好きの私ですので、このオラトリオ「サウル」を聞いたり調べたりするうちに、とても参考になったウェブサイトがありました。 その内容はさておき、このサイトは登場人物名のカタカナ表記に「現地音主義」を採用しているとのことで、このオラトリオのタイトルは普通に使われている「サウル」ではなく、英語で書かれたオラトリオのゆえに「ソール」としています。 従って「ダビデ」は「デイヴィッド」、「ヨナタン」は「ジョナサン」、「ミカル」は「マイカル」などです。  少し気になったので、では同じヘンデルのオラトリオ「メサイア」では「イエス・キリスト」を「ジーザズ・キリスト」 (「キリスト」は名前ではないので聖書での翻訳を採用するはず) としているのかと思ったのですが、残念ながら「メサイア」の項目ではその記載が見つかりませんでした。  「マイカル」が出てきたので、あの消滅してしまった「マイカル」は、と調べたら、こちらは 「MYCAL」 すなわち、"Young & Young Mind Casual Amenity Life"  ("Young Mind" をわざわざ付け加えたのは「若い女性を気取っているオバサンたち」も対象ということでしょうね) を略して YM-CAL 転じて MY-CAL になったのだそうです。  (上の漫画は日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団 教会教育部公式サイトより拝借しました。)

  

そして「現地音主義」を調べるうちに、「ことば逍遥記」というウェブサイトを見つけました。 このサイトはどうやら学校教員の方が発信されているようで、ことばの面白さをひとつひとつ丁寧に解説されています。 その中で日本語の発音の綾の中から一例として取り上げたのが私自身も全く気が付かなかったのですが、この日記のタイトル「インド象」です。 「インド象」と発音するときの「ゾ」と、只「象」と発音するときの「ゾ」が違うことです。 そのほかにも英語、中国語、朝鮮語など多岐にわたっ ています。 ひとつひとつの記事から多くの知識が楽しく得られました。残念ながら「キウリ」のことは出てきませんでしたが、それに近い「大豆生田」の「オオマミュウダ」と「オオマメウダ」の使い分けに触れられていました。  この画面の右の漫画は「よいこのアニメーション」からの転載ですが、ここで茶化されている「は」のことについては「なるほど、なるほど」と感心しました。 F5キーを押して表示を更新 (reload) すると再生が始まります。 

 

最近の若い人達の中には、マ行の発音を唇を閉じないで発音する人が増えてきているとの指摘もありました。 発音は楽な方へ楽な方へと変化してきたというのも世界中の言語の歴史が証明するところです。  パ→マ→ファ→ワ。  ガ()→ハ→ア。 私自身も会話での発音がだんだんとあいまいになってきていることを、その録音を聞いたときに気が付くなど、思い当たるところがありました。 それは「老化」現象でもあるのだと思います。  まだもう少しの間は年齢よりも若さを演出したいと思うので注意します。 自分の会話を録音で聞く機会があるというのは、3歳になったばかりの孫が、2歳頃から私の音楽用の録音機に異様に興味を示し、何度も何度も私たちの会話を録音して聞かせてくれろとせがむからです。 幼児の発達は「自己」という存在を他者の観点で捉えられるかどうかに深く関わっているということも学びました。  この録音を聞いている孫は録音機から出てくる自分の声を聞いて「他者」の立場で「自己」を認識しているのです。  保育園での多くの「他者」との交わりが大きな力になっていることを実感します。  最近は「イヌ」と「マロンちゃん」の違いをはっきりと区別するようになりました。  ということで、私 (の名前) が「おじいちゃん」でないことも分かるようになりました。  とはいえ、こちらの「おじいちゃん」が「『パパ』の父」であることが分かるようになるにはもう少し時間が必要なようです。  大人が、妻を「おかあさん」、夫を「お父さん」、子を持つ娘をその母が「おかあさん」と呼ぶのを私は滑稽だと感じているのですが、これも別な意味で「他者」を意識した呼び方なのです。 

 

また、この「ことば逍遥記」の作者の視点・観点には共感することが多いのです。 単に言語学の研究者の研究結果というのではなく、「ことば」というキーワードを通じて作者からの強いメッセージが込められているような気がします。 

 


さて、「大豆生田」は地名・人名に結構多く使われていますが、読み方 (というより「ふりがな」)には:

   

「おおまめうだ」、「おおまみうだ」、「おおまみゅうだ」、「おおまめおだ」、「まみゅうだ」、「まみょうだ」、「まめうだ」、などといろいろあります。

 

山梨県北杜市須玉町の大豆生田 は 「まみょうだ」

山梨県笛吹市石和町の大豆生田 は 「おおまめおだ」

 

さる人名辞典にはなんと:

 

「おいまにゅうだ」、「おおつきだ」、「おおまえだ」、「おおましょうだ」、「おおまにだ」、「おおまにゅうだ」、「おおまみうた」、「おおまみうだ」、「おおまみゅうだ」、「おおまめうだ」、「おおまにゅだ」、「おおまにいだ」、「おおまにうた」、「おおまにうだ」、「おおままみうだ」、「おおまめいくた」、「おおまめおだ」、「おおむた」、「おおむだ」、「おおもうだ」、「ほめまいきた」、「ましえだ」、「ましょうだ」、「まにうた」、「まにうだ」、「まにゅうだ」、「まみやわだ」、「おおまみえだ」

 

と。 この中の「ほめまいきた」に着目したのですが、その由来や使用例は突き止められませんでした。

 

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