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古い手紙 Old letters きのう、父のワルツ勤務時代のことを書いたので、少し昔のことを調べたくなり、保存されている古い手紙を紐解いてみました。 私の父は異常とも思えるほどの几帳面な人だったので、戦後に私たちの家族 (私の両親と兄姉妹)に来た古い手紙がすべて日付順に整理・保存されています。
これらの手紙を見るのは初めてではないのですが、葉書と封書の一つ一つをあらためて読み返してみると、新しい発見に出合います。
面白いのは「親展」と書かれた父の従弟からの1955年の封書には、私(次男)を養子にくれないか、というのがありました。 こちらからの返書は残っていないので、父がどんな返事を書いたのかはわかりませんが、今私自身がこうしているので断ったのでしょう。
父は戦前から登山によく出かけていたのですが、若い頃山で遭難しそうになった人を助けたことがあったそうで、その人とは父が死ぬ時まで親交を続けていました。 その方は炭鉱会社の重役だったので大変忙しい人でしたが、最初の頃の手紙はタイプライターでローマ字書き、その後は手書きでしたが、大変ユニークな文字で内容が極めて端的に表現されているので深く印象に残っています。 私たちが1976年に現在住んでいる横浜のマンションに移った時、父はもう病気が進んで動くことはできませんでしたが、その方も高齢で余り動けないのに、わざわざ父の見舞いに来て、互いに数十年ぶりの再会に涙していました。 その再会から1週間後に父は亡くなりました。 その方の家は私の勤め先の場所に近いこともあり、父の死後に私が表敬訪問したときのことですが、息子さんは日本フィルのコントラバス奏者で、実は私が合唱団でベートーベンの第9交響曲を歌ったときに一緒していることが分かりました。 その息子さんは神奈川・横浜では有名なプロの音楽家ですが、若くしてお亡くなりになりました。
父は子供の頃から切手収集が趣味で、太平洋戦争の時は東京・目黒の自宅は空襲で焼けましたが、切手コレクションは疎開していて無事でした。 戦後は写真用品の卸業を営みながらも切手コレクションはずっと続けていました。 1956(昭和31)年の日付で徳島に在住の少年と思われる人から来た2通の封書があり、内容は父から切手コレクションの中からある程度の数の切手を分けてもらったことに対する礼状でした。 その手紙は少年とは思えない達筆で文字も枯れていて惹きつけられました。 それで、きょう差出人の名前をインターネットで調べると、京大の大学院を出た生物学者で奈良女子大学の理学部長を務め2005年に退官し、現在は奈良女子大の名誉教授である人であるらしいことが分かりました。 この方は「生命」・「寿命」に関する著作も数多くあり、現在も講演などで活躍中の人です。 この方が60年も昔のこの手紙の差出人であればこの方の手元に送り届けたいと考えています。
戦後、父が写真用品の卸をしていた関係で、1955(昭和30)年頃の手紙の中には、カメラを融通してほしいというのが何通かありました。 当時はカメラブームで、しかし人気のカメラは高価で、しかも定価販売で値引きなし、品切れも普通で店頭ではなかなか買えないという情勢でした。 それで、なんとか父の商売筋から融通して、しかも値引きをして欲しいというものでした。 その時の業界誌を見ると、写真機工業会、写真商組合などで、定価を決め、卸値を決め、組合員以外の業者や個人には商品を卸さないという商法があたりまえの時代でした。 今から考えると独占禁止法に触れるようなことが国策として堂々と行われていたのです。 それが、逆に日本のカメラ業界を世界に冠たるものに押し上げた原動力になったことも否めません。 進駐軍やアメリカの有力カメラメーカーからの大量注文も報告されています。
1950年代に大商社で綿花の貿易を担当していたご近所のご主人が出張・駐在先の各国から送ってきた数多くの絵葉書もまた深く心を打ちます。 もう故人です。
デジタル時代の安易な「メール」は長い間残らないので、このような郷愁に耽ることもできません。 それでも私は1990年代からの大切な電子メール (パソコン通信の記録も) を保存しています。 父のDNAを継いでいますから。
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