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朝飯前の10Kコース Easy 10K course 歩行距離 10.9km 歩行時間 2時間10分 歩数 約14,000歩
この周回コースはちょうど 10km です。30年前にマラソンとトライアスロンのトレーニングをしていた時は朝食前・出勤前に毎朝走っていた「朝飯前の10K」でした。 早い時は約50分でしたが、今日も朝飯前なのに Easy ではなくて、ウォーキングなので2時間かかります。 歩道のでこぼこやかまぼこ状の傾斜、歩道の側溝のコンクリートの蓋板の一枚一枚の顔付き、またそれを踏むと出るゴツンゴツンという音も懐かしいものです。 またもう一度全コースを走れるようになりたいものです。
「引越坂」の由来を調べると、地元の横浜市南区六ッ川の大丸町内会のウェブサイトに大変興味深い解説があったので、全文を転載してご紹介します。
このあたり、その昔、といってもそれほど古くなく昭和11年までは横浜市南部は久良岐郡と呼ばれていました。 ちなみに保土ヶ谷区は現在の横浜市の北部の都筑郡でした。 久良岐の名前は現在わずかに磯子の久良岐公園に留めるほどになってしまいましたが、上の記事にあるように、中世の屯倉(みくら)にちなむ古い土地名です。 そして上に「永田村」として出ている、私たちが住んでいる保土ヶ谷区の「永田」を調べるとこれも大変古い地名であることが分かりました。 住居の表示が1962年の法律で郵便が配達しやすくなるようにと大々的に変更されて、昔の「永田村」そして「永田町」から「永田北」「永田南」「永田東」「永田台」などになってややその趣きがなくなってしまいまいた。
「住居表示」でひとこと:
私が生まれ育った大阪府の豊中市の家は大正時代に阪急電鉄が開発した立派な住宅地の中にありました。 私の父が、大阪の商業学校を出てすぐに、三井銀行で小林一三を育て上げ、後に阪急電鉄の社長も務めた実業家のHBさんの住み込み書生をした関係で、空襲で東京の家を焼かれて戦後の生活に困っていた私たち7人家族を、この住宅地のH家のお屋敷 (HBさんの子息の3家族のそれぞれの大屋敷がありました) の一角にある借家を提供してくれたのです。 この住宅地は道が碁盤の目に切られて、「新屋敷住宅」と呼ばれ、大きな屋敷が並んでいました。 住宅の塀は道路から2メートルセットバックして建て、道路と塀の間の空間にはそれぞれが植木を飾ることが暗黙の了解として今でも生きているのです。 ニューヨークと同じように「通り名」と「丁目」の住居表示でした。 東西の道路は北から「常盤通」「松葉通」「若葉通」「千歳通」「高砂通」「末広通」で東から西へ1丁目から4丁目までありました。 しかしこの住居表示法のためにこの由緒ある通り名は消え失せてしまいました。 今、この住宅地は、元のオーナーが手放すと、マンションになり、あるいはどんどんどんどん小さく分割されて、普通の住宅地になってしまい、元の大きな屋敷は10戸以下になってしまいました。 豊中市はこの美しい住宅地の都市景観を「とよなか百景」に入れて「千歳通り、若葉通りの家並み」として紹介しています。 住居表示は消えてもこれらの「通り名」は通称でもいいから残したいものです。
おりしも「神田三崎町」と「神田猿楽町」が復活するというニュースに触れました。
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