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2014年10月18日(土)

朝飯前の10Kコース Easy 10K course


歩行距離 10.9km 歩行時間 2時間10分 歩数 約14,000歩

 

 

この周回コースはちょうど 10km です。30年前にマラソンとトライアスロンのトレーニングをしていた時は朝食前・出勤前に毎朝走っていた「朝飯前の10K」でした。 早い時は約50分でしたが、今日も朝飯前なのに Easy ではなくて、ウォーキングなので2時間かかります。 歩道のでこぼこやかまぼこ状の傾斜、歩道の側溝のコンクリートの蓋板の一枚一枚の顔付き、またそれを踏むと出るゴツンゴツンという音も懐かしいものです。 またもう一度全コースを走れるようになりたいものです。

 

「引越坂」の由来を調べると、地元の横浜市南区六ッ川の大丸町内会のウェブサイトに大変興味深い解説があったので、全文を転載してご紹介します。

 

引越村と引越坂の由来
【引越村】
六ツ川は昔、引越村と呼ばれて武蔵国多々久郷の中にあった。
多々久郷は弘明寺・中里別所・最戸・久保を3合わせて一郷をなしていたが、その後いつの頃か五ケ村に分村されたとき、それらの村々の村民の一部が、この地に引っ越して来て新たに一村をなしたので引越村の村名が生まれた。
明治二十二年市町村制施行に際し、引越村・弘明寺村・中里村・別所村・蒔田村・永田村・井土ヶ谷村・上大岡村・下大岡村・堀之内村・最戸村・久保村をまとめて大岡川村となり引越村は神奈川県久良岐郡大岡川村大字引越と呼ばれるようになった。
昭和二年横浜市の区制施行に伴い、横浜市に編入され町名を引越から六ツ川町と改称され当初中区に属したが、昭和十八年中区より南区が誕生するにあたり、南区六ツ川町となりさらに昭和四十四年には六ツ川町から町の字を外して、丁目を設け現在に至っている。その昔をたどってみると、大和朝廷の頃「武蔵国の争乱」があり、当時の国造が四ケ所の土地を朝廷の直轄地「屯倉」として献上したが、その一つである倉巣とは後の久良岐郡であることが判明し、この年は甲寅(534年)であった事が文献に残されている。引越村は、元禄四年(1691年)に中里村と共に聖堂領に編入され幕府の直轄地となった。村明細帖によると引越村の石高は一七三石三斗一升九合で、其の内八石七斗七升六合が聖堂領となり戸数二十七戸人口わずか一五九人で、谷戸の奥深くに集落を構え、溜池であった大池・小池から流れる水(六ツ川)を利用し水田を中心に生活が行われていた。

 
【引越坂】
昔この坂道は武蔵国と相模国を結ぶ重要な生活道路であった。
特に相模(戸塚方面)から武蔵(井土ケ谷方面)を抜けて横浜の旧市内へ出る人々は、東海道を保土ケ谷方面へ出るより相当近道であったので、その利用度は大変高いものであった。明治十二年(1879年)に道路整備の工事に着手したが、難工事の為に工事費不足となり中止されたが、これを惜しんで十九年に久良岐郡下大岡村から鎌倉郡川上村にわたっての約三十ケ村の有志が資金の調達を計り再度着手し、ようやく完成したものである。
この道は別名「八さん新道」と云われているが、此の工事の請負人であった鎌倉郡平戸村の宇佐美八右衛門さんが通称「八さん」と呼ばれていたので、それが道の俗称となった。明治四十四年、近郷の村人達が「川上〜戸太間道路改修」の陳情書を県に提出、認可され狭い踏み分け道から一挙に天下の大道として大正三年に完成を見、現在に至っている。

 

このあたり、その昔、といってもそれほど古くなく昭和11年までは横浜市南部は久良岐郡と呼ばれていました。 ちなみに保土ヶ谷区は現在の横浜市の北部の都筑郡でした。 久良岐の名前は現在わずかに磯子の久良岐公園に留めるほどになってしまいましたが、上の記事にあるように、中世の屯倉(みくら)にちなむ古い土地名です。 そして上に「永田村」として出ている、私たちが住んでいる保土ヶ谷区の「永田」を調べるとこれも大変古い地名であることが分かりました。 住居の表示が1962年の法律で郵便が配達しやすくなるようにと大々的に変更されて、昔の「永田村」そして「永田町」から「永田北」「永田南」「永田東」「永田台」などになってややその趣きがなくなってしまいまいた。

 

「住居表示」でひとこと:

 

私が生まれ育った大阪府の豊中市の家は大正時代に阪急電鉄が開発した立派な住宅地の中にありました。 私の父が、大阪の商業学校を出てすぐに、三井銀行で小林一三を育て上げ、後に阪急電鉄の社長も務めた実業家のHBさんの住み込み書生をした関係で、空襲で東京の家を焼かれて戦後の生活に困っていた私たち7人家族を、この住宅地のH家のお屋敷 (HBさんの子息の3家族のそれぞれの大屋敷がありました) の一角にある借家を提供してくれたのです。 この住宅地は道が碁盤の目に切られて、「新屋敷住宅」と呼ばれ、大きな屋敷が並んでいました。 住宅の塀は道路から2メートルセットバックして建て、道路と塀の間の空間にはそれぞれが植木を飾ることが暗黙の了解として今でも生きているのです。 ニューヨークと同じように「通り名」と「丁目」の住居表示でした。 東西の道路は北から「常盤通」「松葉通」「若葉通」「千歳通」「高砂通」「末広通」で東から西へ1丁目から4丁目までありました。 しかしこの住居表示法のためにこの由緒ある通り名は消え失せてしまいました。 今、この住宅地は、元のオーナーが手放すと、マンションになり、あるいはどんどんどんどん小さく分割されて、普通の住宅地になってしまい、元の大きな屋敷は10戸以下になってしまいました。 豊中市はこの美しい住宅地の都市景観を「とよなか百景」に入れて「千歳通り、若葉通りの家並み」として紹介しています。 住居表示は消えてもこれらの「通り名」は通称でもいいから残したいものです。

 

おりしも「神田三崎町」と「神田猿楽町」が復活するというニュースに触れました。

 

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