季節の挨拶

一般の暦で 2005年12月22日


昨年の冬至のご挨拶をほとんどそのまんま使います。

そもそも、私は「新しい年をめでる」という気持ちがよく理解できず、むりやり年末に「年賀状」を書いてもぴんとこないし、また、「年賀状」が届かないでさらにさびしい思いをする「喪中」の方々にもご挨拶したいし、、、、、ということで、「季節の」挨拶をいたします。

11月頃になると「喪中につき年賀欠礼いたします」という葉書を受け取ります。しかし待ってください。「喪中」なのに忘年会や新年会に出て大酒を喰らい、カラオケでだみ声を張り上げ、人の結婚式にでて、、、、、、、それなのにどうして年賀状だけはだめなのでしょうか。 いいではないですか。 ことさら怒る人もいないしばちが当ることも亡くなった人が恨むこともないでしょう。 「世間」はそれを「習慣・しきたり」だとか「常識」だとかいいますが、本当に喪に服することは全くしないでいて、「年賀状欠礼」という形だけを「常識」とし、意味のない「習慣」や「しきたり」を守り、よく考えもせずにそれらを「常識」として観念を固定するのは、真心がこもっていないのできらいです。

キリスト教徒の方々は降誕祭を迎え教会やご家庭で静かにお祈りをされていることと思います。神道信者(そんな人本当にいるのかしらん)と仏教徒の方々も、「西暦」での年の初めなのに「神」や「仏」や「仏像」や「僧職」に「加護」や「ご利益(漢字で書いたほうが実感がありますね)」を願って神社やお寺へ初詣をご計画中のことと思います。「西暦=イエス・キリストが誕生したとされる年を紀元元年とする。(広辞苑)」

そんなこと(宗教や暦)はどうでもいいと考えているあなた、すなわち「普通の人々」は、今週あたりは、ジングルベルやケーキやデートや買い物を楽しみ、あるいは大騒ぎをし、また、再来週あたりには「そうするものだから」といって神社やお寺への初詣をご計画中のことと思います。おめでとうございます(広辞苑「めでたい」の項C)。

この季節をいつもと変らず過すはずのイスラーム教徒やユダヤ教徒の方々、そして月の満ち欠けをベースにした暦を使っている多くのアジアの方々でも、キリスト教の人々やそのまねをしている人たちと同じように「いやいや、楽しむときは楽しむのだ」といっている人も多いことでしょう。

現在、世界中で多く使用されている暦で年が変わる時点(普通の言い方をすると「お正月」)がどうしてめでたいのかが未だによく分らない私は、1月になってみなさんがすーっと言われる「あけましておめでとうございます」の一言がどうしても喉に詰まってでてきません。この暦での年の変わり目、すなわち12月31日と1月1日との境目はどのようにして決まったものなのでしょうか。そしてどうしてその特定の変わり目がめでたいのでしょうか。他の日はめでたくないのでしょうか。そもそも「めでたい」とはどういうことなのでしょうか。一年の変わり目として常識的にもっとも「めでたい」のは、北半球に住んでいる人々にとっては「冬至」であることに異論はないと思います。「おーい、お日様がもうこれ以上逃げないで戻ってくるぞー !!!!  うれしいなー!!!!」。 もともと「冬至」を年のはじめにするつもりが間違って1週間ずれてしまっているのですよ。冬至からたった2、3日ほどしか違わないあの「12月25日」も本来冬至を祝うつもりが、なにか意図があって誰かさんの誕生日ということにしてしまったのでのです。この暦は世界的に統一したほうが便利であり、天体の動きの計算がうまくできるようになったからより正確に決められる、というに過ぎないのに、その暦で「年が変わる」からといって「めでたい」はずがない、と思います。

さて、その今年(乙酉 いつゆう きのととり 西暦2005年 紀元2665年 日本列島暦平成17年 イスラーム歴XX年、中華民国暦ZZ年、中華人民共和国暦2005年)は、私はBMW大型オートバイによるヨーロッパアルプスの峠越えに挑戦し、カタール国ドーハ経由でトルコ共和国への自然・歴史・人々の暮らしを学び・それにもちろん食べ物を楽しむ旅行をし、南国、ちゅらしま、宮古島での島遊びなどを楽しみ、それにバッハの「マタイ受難曲」と「ロ短調ミサ曲」の合唱団活動への復帰を果たしました。

ところで、「干支」(読みは「かんし」、または「えと」(兄と弟の意))の、「
十干十二支」の本店のほうの「十干」は、「じゅっかん」ではなく、「じっかん」と発音し、そのようにひらがな表記するのが正しいです。これは「十」はもともと「じふ」と書いていたからです。だから「10分」は「じっぷん」、「十返舎一九」は絶対に「じっぺんしゃいっく」です。 支店のほうの動物の方は「ジューニシ」と発音されていますが、ひらがなで「じゅうにし」と書くのも、落ち着きが悪いですね。ところで、胡瓜(きうり)を「きゅうり」と書くのは許せません。現代仮名遣いで「きゅう」と書くと決めた、「きう」の「旧」や「きう」の「急」などと違い、胡瓜は「き・うり」であって「きう・り」ではないのです。ほとんどの辞書、とりわけ広辞苑にまで、「きゅうり」の項があるのは絶対許せません。ひどい場合には「キューリ」と書かれているのもあり、これを見て「瓜」が「私の名前は一体なあに」と、いったとか、いわないとか。 その内に木内さんは「きゅうちさん」、日置さんは「ひょうきさん」、「燧ケ岳」は「ひゅーちがたけ」、「仁王様」は「にょーさま」、「祇園」や「ぎょん」とルビ書き されるようになるかも知れません。
そうしないなら「きゅうり」は「きうり」へ戻せーーーーっ!!!(「っ」はLTU)

それはそれ(普通の言い方では「屁理屈」)として、皆様がいつもいつも健康にまた楽しく過されること(普通の言い方では「ご健勝」)を期待しています(私は自分の「宗教感」から「願ったり」、「祈ったり」する対象(すなわち神とか仏)をもたないので「期待」することとなります)。

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