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旧友がテレビに Old friends seen on TV リビングでテレビを見ていたMが大声で叫びました。
あの中村さんだぁーーー!!!
私も自分の部屋から飛び出してかけつけると、テレビ朝日の「世界の村で発見! こんなところに日本人」という番組です。 この番組で紹介されていたのは昔のトライアスロン仲間の中村真人さんと奥さんの Vicki Vogel さんの家族でした。 二人とは1985年8月11日 (翌日の夕方日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落して520人が死亡) に千葉県の館山の遠泳大会の帰りに東京湾フェリーの船上で一緒になりました。 中村さんはその年の4月に宮古島トライアスロンに出場していたこともあって気が合い話が弾み、その後一緒にトライアスロンの練習をする仲になりました。 翌年の1986年の第2回宮古島トライアスロン (私は設立したばかりの日本トライアスロン協会の理事長として大会運営に参加したので出場せず) の時には中村さんと Vicki はこの大会に出場完走し、この大会の表彰式パーティの際に、全出場者や関係者が見守る中、「トライアスロン結婚式」をあげました。 その「トライアスロン結婚式」はテレビ番組の中でも写真が紹介されていましたが、下の写真と記事は雑誌「トライアスロン 通巻6号 1985年11月 ランナーズ社発行」に掲載されたものです。
二人がカナダに移住してからは会うこともなくなり、しばらく音信は途絶えていました。 最後の連絡は二人がカナダに移住して6年後の1996年に初めての子供が誕生したときに送ってくれた絵葉書です。
インターネットの検索で、中村さんがプロのイラストレータであることやバンクーバー市の企画で子供たちにサッカーを教えていること、そしてプロ写真家としてバンクーバーなどでのスポーツ・音楽イベント、お祭り、花火などの写真を Facebook で公開していることは知っていました。 テレビ番組はこの中村さんが「専業主夫」でかつ手作りで納豆を作り地元のスーパーに卸して日本独特の食文化をこの土地に紹介して広めようと努力している姿でした。 奥さんのビッキーさんは地元の ランガラ・カレッジ (Langara College) で「言語および第二外国語としての英語」(Languages and English as a Second Language (ESL)) 学科の責任者として活躍中の場面で、この絵葉書に写っている長男の恵美留さんは大学生になっており、テレビ番組収録の際は不在で登場しませんでした。 バンクーバーへ行く機会があれば、また是非再会したいものです。 この日記を読んでくれたら嬉しいのですが。
この日記を書くのに第1回と第2回の宮古島トライアスロン大会の記録を調べてみて気が付きました。 1985年4月に初めて宮古島での大規模なトライアスロン大会を開催するにあたり、NHKが「テレビで初めての衛星中継生放送」をする対象に選ばれるという幸運に恵まれました。 宮古島や周辺の島々からなる離島自治体の地域活性化、いわゆる「町おこし事業プロジェクト」モデルの先駆けとして、また、トライアスロンという新しいスポーツの紹介と普及を兼ねて、そして、NHK も初の「衛星中継放送」を成功させるという意味からもこの大会を盛り上げなくてはなりませんでした。 そのために国際性や話題性、そして競技そのものの迫力や面白さが求められました。 男子選手は日本人の中山俊行さんや城本徳満さんなど海外選手とも戦える実力を持っており、それはそれでいいのですが、女子選手は日本人選手が全く育っていなかったので、当時私がトライアスリートの全国組織である「全国トライアスロン協議会」のメンバーで数少ないハワイアイアンマントライアスロンの完走者だった関係で、主催者側から (個人的に) 外国人女子選手を推薦するように依頼されました。 そこでアイアンマントライアスロンで出会って知り合いになっていた香港在住のイギリス人選手の Ruth Hunt を、香港と宮古島の距離も近いこともあり、推薦することにしました。 Ruth は、自分の友人でやはり香港在住のイギリス人で一緒にトライアスロンをやっている Kim Isherwood も宮古島大会に出たいと言っているので Kim も推薦してくれないかと頼まれたので、厚かましくも、その二人を主催者に推薦したところOKが得られて二人とも招待してくれることになりました。 招待選手の旅費・参加費・宿泊料は主催者が負担してくれました。 第1回大会の招待選手はゼッケン番号順に次の通りです。
1 清水仲治 (63) 全国トライアスロン協議会代表幹事 2 永谷誠一
(58)
熊本クレージートライアスロンクラブ会長・協議会幹事 3 高石ともや (43) 歌手・第1回皆生トライアスロン大会優勝(1981) 4 私 (41) (単なる)「全国トライアスロン協議会」のメンバーの一人 5 Ruth Hunt (29) 香港 (現在 ITU国際トライアスロン連合香港代表) 6 Kim Isherwood (26) 香港 以下 7番から 10番まで国内有力選手
これを見ると高石ともやさんを除き協議会関係者と私の推薦人が優遇されたことが分かります。 トライアスロン協議会のメンバーでもっと強い選手の出場者は他に大勢いるのに、私を特別扱いしてくれたというのは、かなり不自然ですが、私がアイアンマンだったし、海外の有力女子選手を推薦するという手間を引き受けたことに対するご褒美だったような気がします。 ちなみに新自由クラブ (後に自民党に移り文部大臣) の代議士・小杉隆さん (49) は ゼッケン番号 11番でした。 実は翌年の3月に日本トライアスロン協会が設立されて私が理事長に就任した時、私はこの宮古島大会を含む全国のトライアスロン大会の実行委員長を集めた「大会実行委員会」の「委員長」も兼務することになったので面目が保たれたと考えました。
この第1回大会では 本命の Ruth Hunt が来島してから風邪をひいて欠場しましたが 2番手の Kim Isherwood がダントツで初優勝を飾り私も溜飲を下げました。 翌年の第2回大会 (1986) も Ruth Hunt と Kim Iserwood が参加し今度は Ruth Hunt が、主催者が招待した超有名なカナダの女性トライアスリート Jacqueline Shaw を破り番狂わせの初優勝という快挙を果たし、主催者は面目丸つぶれ、私は喝采の結果になりました。 その翌年の第3回 (1987) にはなんと、Ruth Hunt と Kim Isherwood が1位、2位独占のワンツーフィニッシュとなりました。 当時私は前年 (1986年) の3月に発足した日本トライアスロン協会の理事長を務めており終日宮古テレビの実況中継の解説者でした。 競技終了後、平良の居酒屋で3人だけで飲み交わした美酒の味は忘れられません。
さて主人公の中村真人さんの記録は、第1回は トータル 42位の Kim Isherwood の次の 43位、第2回はトータル 37位の Ruth Hunt の次の38 位と、いずれも女子優勝者の背中を間近に追いながらのフィニッシュになりました。 何かの因縁を感じます。
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