私の履歴書 (3)  <バロック音楽アンサンブル>

藤の台合奏団・プロムジカポリフォニカ(PMP)・東京合唱団・CPEバッハコレギウム

バロック音楽との出会い

今からほぼ55年前の1967年、 NHK FM の早朝の人気番組 「バロック音楽の楽しみ」で服部幸三さんの素敵な解説でリコーダという楽器とテーレマンという作曲家を知った。 

私にとって新しいリコーダという楽器に魅せられ、すぐに富山化学のプラスチックのリコーダー「アウロス」を買って、横浜上大岡の会社の寮で外国で出版されたエチュードで独習した。やがて、木製リコーダが欲しくなり、1968年に給料・ボーナスをはたいてメック社のアルトリコーダー Tuju シリーズのメープル(楓)を銀座のヤマハで手に入れた。

当時「クワドロ東京」というバロックアンサンブル(バイオリン田中千香士、チェロ藤本英雄、リコーダ多田逸郎、チェンバロ小林道夫の各氏)があり、御茶ノ水の岩波ホールで毎月開かれていたささやかな演奏会に通った。1920年代にイギリスでアーノルド・ドルメッチがリコーダを復元し、終戦後に欧米で始まったバロック音楽再興の嵐がようやくこの列島にまで届き始めた頃である。ブリュッヘンはまだ20代前半でブリュッゲンと呼ばれていた。クイケン兄弟はまだ知られていおらず、ハンス・マルティン・リンデの録音が多かったような記憶がある。亡くなったデイビッド・マンローの名前が懐かしい。ヨーロッパではリコーダコンソートで中世の音楽がもてはやされていた。 この四半世紀のバロック音楽の演奏解釈と演奏技術の発展は目を見張るものがある。

藤の台合奏団

1973年10月、町田市の藤の台団地の自宅でリコーダを吹いていると、ご近所のフルート吹きの耳に止まりアンサンブルをした。この最初のアンサンブルでバッハのトリオソナタなどをフルート、リコーダ、ピアノで演奏した録音テープは大切にとってある。そして団地の中にバロックアンサンブルを作ることになった。メンバーは奇跡的に恵まれて、バイオリンはスズキメソードの超優等生、フルートはこの芸大出身者、ファゴットは国立音大卒業生、チェンバロはチェンバロオタク、東京芸大で音響学を教えている先生(リコーダも吹く)、それにリコーダ吹きの私の6人が揃った。これが「藤の台合奏団」である。 

 

バロック室内楽とリコーダコンソートを中心に、2,3ヶ月に1回位のペースで団地の集会所でサロンコンサートを開いた。 

 

徐々にメンバーが充実し、クリスマスコンサートではコレルリのクリスマス協奏曲などができるようになり、3年後にはブランデンブルク協奏曲にまで手を出した。

 

町田市民オーケストラ

「藤の台合奏団」の設立時メンバーのご近所のフルート吹きはHRさん。スズキメソードの優等生はOSさん、国立のファゴット吹きはHGさん、チェンバロオタクはGKさん。芸大の先生はNS一さん。

私以外のこの5人は「藤の台合奏団」の活動と平行して、町田市に市民オーケストラを作る活動を開始した。「藤の台合奏団」は町に繰り出して、商店街のガレージでコンサートを開き、人の足を止め、ビラを配り、市民オーケストラを作ろうと呼びかけた。

 

また当時団地の自治会長だったHRさんや芸大のNSさんたちのバイタリティは町田市長や市内にある玉川大学の音楽学部の教員方も動かした。OSさんの高い演奏技術は参加希望者にこの市民オーケストラの将来の技術の方向を暗示していた。HGさんはプロとしての経験(宝塚歌劇団など)がこの難しい楽器で初歩のアマチュアオーケストラのベースを支えた。 GKさんはその類まれな音楽知識(特にオペラ)をもって新進オーケストラに生きた血を吹き込んだ。オーケストラにチェンバリストはいらないので、彼は急遽オーボエを習い始めたが、やはり無理があったのだろう、しばらくして打楽器に転向したと聞いている。NSさんは芸大の先生とはいえ、オーケストラに使われる楽器の演奏ができないので、団員には加わらなかったが、設立の活動に協力して、そのバイタリティと音楽教育界やアマチュア音楽界における指導的な立場や、その人格が多くの人からの共感をもたらし、新興市民都市と伝統ある田園地域である町田市・相模原市をユニークな音楽都市に導く大きな原動力になった。

「藤の台合奏団」の二番手バイオリニストのYTさんは東京ゾリステンでプロの活動の傍らこのオーケストラに参加した(今はコンサートミストレス)。

このような人々のオーケストラを作ろうとする熱心な思いは、指導者選びの段階で花が開いた。同じ町田市に住む当時名古屋フィルの常任指揮者であった荒谷俊治さんが、その熱意を受け止め、また優れた地域アマチュアオーケストラを育てたいというご自身のお気持ちが一体となって、指揮者兼音楽監督として就任した。1977年頃のことである。

藤の台合奏団からはこの他にバイオリンのFKさん、トロンボーンのLRさん、チェロのIFさん、最初の事務局長のHさん(フルートのHRさんの奥さん)、オーボエとチェロのAさんご夫妻などがこのオーケストラに参加して活躍している。

この市民オーケストラはこの20年間で、すばらしい発展を遂げ、名前も「町田フィルハーモニックオーケストラ(町フィル)」となり、技術力、運営とも市民オーケストラの模範となっている。 町フィルの室内楽部門は2000年にヨーロッパ演奏旅行にも出かけた。

なお、私の初めてのバロックアンサンブルの相手であり、町田のオーケストラ設立の起案者であり達成させたHRさんは、オーケストラ設立後まもなく故人となったことは大変残念なことである。

NSさん

藤の台団地で向かいの棟に住んで、私のピーヒャラを聞いていたのが、東京芸大で音響学を教え、音楽と音響学とを強く結びつけていたNSさんである。バロック音楽の重要な楽器であったリコーダーがこの列島に紹介され始める1960年代よりもずっと早くから、海外で手に入れたリコーダを自身で演奏していた。また、出身の学習院の同窓会、輔仁会(天皇も会員)メンバーを中心として結成された「東京合唱団」を率いて、宗教音楽界の重鎮、前田幸市郎氏の指導を受けていた。NSさんは長い間、東京芸術大学音楽学部で物理学(特に音響学)の教鞭をとっていた。 芸大で音楽を学ぶ錚々たる若者にとっては苦手な物理学であるから、音楽では天狗の芸大学生達は「NS先生」には誰も頭があがらない。NSさんは、芸大の学生・卒業生に対して多大な影響力をもっているわけで、これを上手く自身の趣味の音楽活動に利用してこられた。東京芸大からは西洋音楽だけではなく、邦楽や民族音楽の分野でも優れた演奏家や音楽学者が育っているが、その多くの方々が音響学をNSさんから学んだわけである。  この列島の大学で始めての音楽学の博士になられた宮城道雄最後の弟子といわれる生田流筝曲のAMさん(現在東京芸大教授)が筝の撥弦特性に関する博士論文を提出されたときの指導教官だった。 NSさんは音楽ホールの音響研究のほかにも、騒音に関する研究でも多くの論文を発表され、また音響学会や国際会議などでも活躍されている。奇遇であるが、私は大阪大学でNSさんのお父さんから数学を学んだ。 数学界では有名なNK教授である。 以来私とNSさんとは切っても切れない仲である。

東京合唱団・前田幸市郎さん

私は当時(1974年頃)会社では職場合唱団に入っており、一時は全国社会人合唱コンクールで神奈川県代表にもなった。 同じ頃、NSさんの「東京合唱団」が東京文化会館で開いたバッハの「マタイ受難曲」演奏会を聞く機会を得た。 このバッハの大曲が私が会社でやっている合唱音楽とはあまりにも違う世界であるのを見てびっくりしてしまった。バロック音楽好きを自認していた私にはショックであった。すぐに東京合唱団に入団した。そこは知る人ぞ知る故・前田幸市郎さんの宗教音楽の世界である。 

 

前田さんにはバッハ、ヘンデル、モーツァルト、フォーレ、ブルックナーなどの音楽をおよそ15年間にわたり毎週1回の合唱練習と年3回の定期演奏会を通じてみっちりと教わった。これは私の大きな財産になった。特にバッハの音楽では演奏を通じて前田さんから教わったことが私にとってはかけがえのないものとなっている。前田さんに学んだ合唱仲間からは多くの逸材、特にバッハの研究者・演奏者が育っている。バッハ研究者の久保田慶一さん(東京芸大楽理科卒業・著書には「バッハの息子達」、「バッハ事典」、「C.P.E. バッハ研究-改訂と編曲」(音楽の友社)、「エマニュエル・バッハ」(東京書籍)など)、バッハのカンタータ全曲演奏に取り組む横浜のJSカンマーコアの阿部純さん、鎌倉のグロリア少年合唱団を世界的な少年合唱団に育て上げた吉川清さん。 その他私の知らない方々も含め多くの人たちが前田さんの宗教音楽コンセプトを受け継いでいる。

 

以下 2005/11/27追記

 

安田祥子さんと澤田久雄さんご夫妻のこと

由紀さおりさんと安田祥子さんが出演したテレビの番組「波乱万丈」で、安田さんが澤田久雄さんとめぐり合ったのが「前田幸市郎先生が指揮していた合唱団」との発言があったので、NSさんに確認したところ、澤田さんも東京合唱団でも一緒だったとお聞きした。安田さんはソプラノ歌手として共演した東京合唱団で澤田さんと知り合い、安田さん曰く、澤田さんのアタックとプロポーズで結婚されたとのこと。

 

藤の台合奏団からPMPへ

「藤の台合奏団」は、器楽メンバーだけではなく、合唱メンバーも抱えていたので、1975年頃「アンサンブル・プロムジカポリフォニカ (PMP)」と名前を変えた。 ラテン語で、プロとは愛好者、ムジカは音楽、ポリフォニカは造語だが、ポリフォニーすなわち多声音楽というのを組み合わせ、「ポリフォニー音楽愛好家」という意味である。 バロックアンサンブルとして有名な、「プロムジカアンティクァ(古楽愛好家)」や「プロムジカケルン(ケルンの音楽好き)」とかをもじったものである。NSさんの命名。

メサイアシングインと永井宏さん

NSさんは東京合唱団だけでなく、ヨソの合唱団にもよく出かけていた。その一つが東京飯倉にあるキリスト教の一派である聖公会の聖オルバン教会で行われていたヘンデル「メサイア」のシングインコンサートである。シングインコンサートとは聴衆も一緒に歌えるコンサートのことである。 この聖オルバン教会の「メサイアシングイン」は、初代国連大使の澤田廉三さんとエリザベスサンダーズホーム (第二次大戦後の混血孤児院) の創設者の澤田美喜さんのご子息で京都大学アメリカンフットボール部生みの親である澤田久雄さん(2001年8月30日逝去)が、奥様でありソプラノ歌手である、かの安田祥子さん(由紀さおりさんのお姉さん)と共に長く続けられてこられたものである。 澤田さんは長年のヨーロッパでの生活経験で馴染みになった、「メサイアシングイン」をこの列島に持ってこられたのだと思う。1978年にNSさんがこの聖オルバン教会の「メサイア」シングインに参加され、「若いけれどすばらしい指揮者だ」と絶賛したのが永井宏さんである。 また私も翌年からこのメサイアシングインに参加した。その頃、プロムジカポリフォニカ(PMP)は町田市の合唱祭に第1回にはルネサンス音楽をヴィオラ・ダ・ガンバとリコーダーの合奏と合唱で、そして第2回にはメサイアの最終曲(神の子羊・アーメンコーラス)を室内オーケストラと合唱団で参加し、合唱祭の主催者や他の合唱団から、「ピアノ以外の伴奏をつけるのは合唱祭のルール違反」とひんしゅくを買ったのは楽しい思い出である。

 

オルバン教会でメサイアシングインの楽しさを経験した私達はPMPのメサイアを永井さんに指揮してもらい、できればシングインという形で町田に根付かせようと決め、NSさんは永井宏さんを口説き落とした。そこは「芸大の先生」、「音響学の権威」、「前田先生の一番弟子」、「東京合唱団の実力リーダー」のNSさんからの話ですから、永井さんも「PMP」がどんなアンサンブルなのか疑心暗鬼のうちにも受け入れてくれた。永井さんは優れたピアニストとして国立音大で教えるだけでなく、リサイタルも開かれている。 また、宗教音楽研究会合唱団(宗研合唱団)では練習ピアニストを務め、その後に合唱の指導、アンサンブルの指揮など、活動の領域は大変ひろく、青山学院の「メサイア」や各地の合唱団による「マタイ受難曲」も指導、指揮されている。  母校の国立音楽大学でピアノ指導と共に学生の合唱団の指導をしており、毎年暮れに行われるNHK交響楽団のベートーベン交響曲第9番「合唱つき」演奏会に出演する国立音楽大学の合唱団の指導を担当している。

まちだメサイアシングイン

1981年秋の永井宏さんを迎えての「PMPの新しいメサイア」の最初の練習は小田急玉川学園駅前の公民館だった。初めての合唱団と初めて音を出すときの新しい指揮者の複雑な気持ちは押して量るに余りある。合唱団のメンバーにとっても。 

私とNSさんはこの新しい「PMPのメサイア」を聖オルバン教会のそれと同じように、キリスト教会で聴衆とともに歌い上げる「シングイン」形式にすることにこだわった。それはNSさんも私もヨーロッパとアメリカではどこの町でもクリスマスにはヘンデルのメサイアが信者や市民や音楽愛好家が教会で一緒に歌うシングインという形式で演奏されている事が多く行われているのを知っていたからである。

はたして、永井宏さん指揮によるPMPのはじめての「まちだメサイアシングイン」は、1981年12月、日本基督教団の原町田教会のアドベント(待降節)行事に組み入れられ、狭い教会の聖堂は聴衆があふれた。町フィルの指揮者の荒谷さんも、客席で大きな声でバスを歌っているのがよく見えた。 オーケストラと合唱とソリストの織りなすヘンデルの宗教音楽世界が再現され、また聴衆が合唱団と一緒に歌う、新しい演奏会の形式の試み「シングイン」コンサートがこの列島の地方都市でも見事に実現し、音楽好きも、教会の方々も、演奏するメンバーも幸せだった。人いきれの中で途中でついに停電となり一時ストップしてしまった。暖房の機械や教会の電気の容量を越えて閉まったからである。次の年からは容量をふやしてもらって、かつ重要度の低い電気器具を使わずなんとか、乗り切ってきた。以来、12月のクリスマス前(待降節)の町田メサイアシングインは町田市の音楽風物の一こまとなった。

 

ソリストや演奏家にはNSさんの人脈を通じて、プロやセミプロの若手を登用した。 皆さんはすずめの涙にもたりない報酬にもかかわらず、「永井さんのメサイア」と「熱心なアマチュア音楽愛好家」の熱意によく応えてくれた。

これらの若者たちの中には今では一流の歌手や演奏家になっている人もいる。思えば最初のオルガニストは今ではこの列島のオルガニストのリーダーである今井奈緒子さん。ソプラノでは高橋薫子さんが数多く出演。 第1回からずっとテノールを受け持ってくれた辻秀幸さんは現在は合唱指導者として大活躍。 また、当時全く無名で学生気分のカウンターテナーの米良美一さんは、今は引っ張り凧でスター歌手のようになった。 練習のピアノ伴奏は、東京芸大楽理科の堤ゆりさんと青山学院の合唱団指揮者でありキリスト教牧師でもある渡辺善忠さんが引き受けてくれた。渡辺さんは本番では本職のオルガン、堤さんはチェンバロを担当した。当時の若い音楽家の卵が、現在音楽界の第一線で活躍する姿を見るのは感慨深い。

 

さて、いろいろなイベントは回を重ねていくと、継続することが目的化したり、長く続けていることがなにか素晴らしいことであると認識するのは意味がないので、この「まちだメサイアシングイン」はスタート時点から、「期間限定」とすることが私とNSさんのポリシーであった。関係者のご了解のもとに1999年暮れの第19回目をもって終了した。当初考えていたよりも長く続いた。

参加したのは、

 指揮者の永井宏さん

 PMP合唱団(メンバー不特定)

 PMPオーケストラ(主に旧藤の台合奏団メンバーと町田フィルに所属する有志)

 ソリスト(主に東京芸大の声楽科の卒業生)

 オルガン・チェンバロ(第1,2回は今井奈緒子さん、その後、堤ゆりさん、渡辺善忠さん)

 原町田教会(練習会場、演奏会場の提供、教会行事への組み込み)

 東京古典楽器センター(全19回の演奏会でのチェンバロの提供)

 会場の受付・整理・音場設定、録音と写真撮影の技師の方々

 聴衆の皆さん

マタイ受難曲

メサイアシングインが10回を超えるようになった1993年頃、新しいアイデアがでた。NSさんと永井さんのどちらが仕掛けたかは分からないが、私達3人は密かに小田急の新百合ヶ丘駅近くのコーヒーショップに集まり謀議が行われた。PMPでバッハの「マタイ受難曲」を「本来の形にできるだけ近い形でやろう」と。 PMPに果たしてこの大曲ができるのであろうか。結論が「5ヵ年計画」だった。とにかく公演はスタートさせて、その後5年間かけて少しづつ仕上げていこうと。 予算計画管理、リソース管理、設備管理、工程管理のことなど、私は専門のプロジェクトマネジメント手法を採用してプロジェクトマネージャを担当した。 永井さんは音楽側面と技術側面。 NSさんは幅広い人脈を通じて総合管理と広報、営業を分担した。

原町田教会は狭いが、他に場所はなかなか見つからない。二つの合唱団、二つのオーケストラ、児童合唱団、それに二つのパイプオルガン。ソリストたち。まあよくやったものだと思う。 最初の間は何曲かを省かざるを得ないが、それでも全体の流れは確保する。 聖書の部分エバンゲリストの役を歌手が歌うのはようやく4回目からで、それまでは朗読、それもこだわりの日本語での朗読。日本語にこだわったのはさすが、クリスチャンの永井さん。おかげで私達、非クリスチャンも「マタイ受難曲」を音楽だけでけなく、その背景・筋書き・内容がキチンと頭に入った。

 

完全演奏から終結へ

マタイの公演は4回目からは編成が大きくなり、原町田教会ではもう不可能になり、もっと大きな場所へと、田園都市線・青葉台のフィリアホールへ移ることにした。 私はあいにく会社の業務で天然ガスプラントのプロジェクトでアラビアの小国カタールの首都ドーハに駐在することになり、運営と参加ができなくなった。この公演の日はやりくりし一時帰国してはじめてPMPを聞く役にまわった(ちなみに私は合唱ではテノール)。 予測が外れて会場に入れないお客さんがロビーにあふれて、会場係りの人が謝りつづけるはめになってしまった。このホールの良さが私達の演奏をよく生かしてくれた。フィリアホールでは2台のパイプオルガン、エバンゲリストも、リュートもビオラダガンバも入っての完全な形での演奏である。

このPMPの「マタイ受難曲」連続定期公演は21世紀を迎えた2001年4月1日に9回目を最後に終了した。

参加したのは、

 指揮者の永井宏さん

 PMP合唱団(メンバー不特定)

 原町田教会の子供たちを主体にした Soprano in ripieno

 オーケストラ(永井さんとNSさんの人脈で集まったプロの演奏家)

 ソリスト(主に東京芸大の声楽科の卒業生)

 オルガン(堤ゆりさん、渡辺善忠さん)

 原町田教会(練習会場、演奏会場の提供)

 マナオルゲルバウと森本薫さん(ポジティフオルガンの提供)

 会場の管理・受付・整理、音場設定、録音と写真撮影の技師の方々

 聴衆の皆さん

PMPビストロ論

「藤の台合奏団」から始まったPMPは30年の間に大きな変革をとげたが、2001年のフィリアホールでのマタイ受難曲の最終公演以後アンサンブルとしての活動は一休みしている。

PMPは一般のアマチュア合唱団や市民オーケストラとはその運営方法をまったく異にしている。 固定の団員もいないし、団としての規約も、団長もいない。 自分でいうのもなんだが、はっきりいって「民主的」ではない。 私はそれを「ビストロ」にたとえる。 

 

ある町で料理好きの6人が集まり(藤の台合奏団)、好みの料理(バロック音楽)を作ってご近所の方に振舞って(藤の台サロンコンサート)喜ばれていた。 その内の4人(HR・OS・GK・HG)はまもなくこの地方で唯一のレストラン(町田市民管弦楽団)を作った。このレストランはやがて国内で有名なシェフ(荒谷俊治さん)を雇い入れて終身料理長とした。一方レストラン料理が作れない他の二人(NS・NT)は家庭料理や地方料理専門のビストロ(PMP)を作って特徴のある料理を提供することとした。 レストランの4人はこの古巣のビストロでも腕を振るったが、やがてレストランが忙しくなりビストロの運営からは遠ざかっていったので、この二人が切り盛りする実質的なオーナーとなった。ある日、オーナーはドイツ風イギリス料理(ヘンデル・メサイア)を上手く作るシェフ(永井宏さん)を見つけたので、このシェフを雇い入れてこのイギリス料理をビストロの売り物とした。

店の作りと営業時間などはオーナーの好みが140パーセント入っている。このビストロのお客様はそのときそのときのPMPメンバー(合唱・合奏)、と聴衆、それに演奏会を支えてくれる多くの人々である。オーナーが作るお店の雰囲気とメニュー、それに厳選した新鮮な素材(若手のプロのソリストやエキストラのプロの演奏家たち)を使って名シェフが腕をふるって作る料理。 これを食べたい人は店に入り、それを楽しみ、気に入ればお金を払っていただき、いい気分で帰っていただく。気に入らなければ別のお店へ行っていただくなり、もう二度と来ない。そのようなお店である。

 

オーナーの強い好みで仕立て上げられたこのちょっとくせのあるこのお店は、その変わった雰囲気と料理でお店は評判が立った。どんどんお客さんも増えてオーナーもシェフも腕が奮えた。オーナーとシェフはいつもいつも自分の足と目で、自分の店に合う魚河岸の一番良い魚を選び使った。10年ほどたって、このイギリス料理だけでは物足りなくなったので、本格的なドイツ料理(バッハ マタイ受難曲)をメニューに加えた。お客さんの舌も肥え、小さな店も手狭になってきたので大通りの裏手(フィリアホール)に移った。今まではオーナーの気分で適当に休みを取れたのに、グルメ雑誌にも紹介されて、勝手に休むことも出来なくなった。店を開いた頃はその素朴な味でお客さんに喜ばれていたオーナーの手作りのサラダも出せなくなった。メニューも立派になった。お店の従業員も増え、家族的な雰囲気も陰を潜めてしまった。もういっぱしのレストランになってしまった。オーナーの身勝手や、好みが通らなくなってしまった。

大都会の郊外(横浜・保土ケ谷)に住んでいるオーナーの一人は昔、田舎での小さい店の雰囲気が懐かしくなり、この街角でまた小さい店を一人で始めるべく、再び昔覚えたソースの作り方をためしている。昔の腕は戻らないかもしれないが、ご近所の新しいグルメや若者向けのおふくろの味を試したいと考えた。この新しい小さいビストロの名前を「ボアモルティエをトラヴェルソで」にしたいと考えた。

CPEバッハコレギウム

ようやく、新しい小さい店を開いた。名前は違っている。ドイツ風料理の「CPEバッハ・コレギウム」である。ときどきは不得意なフランス料理も出す。
そのオーナーはフラウトトラヴェルソを吹きたい一心で、1999年から始めたフルートのレッスンが4年経過し、それらしい演奏が出来るようになってきたので、カール・フィーリプ・エマ-

ヌエル・バッハが大好きという「珍しい」仲間と毎月1回のアンサンブル練習をはじめた。

そして、2002年10月26日にはじめてのサロンコンサートを横浜「港の見える丘公園」の「イギリス館」で開催した。プログラムは、W.F.バッハのフルート二重奏曲、C.P.E.バッハのフルートとオブリガートチェンバロのためのデュオソナタ、C.P.Eバッハのフルートとヴァイオリンのためのトリオソナタ、他。2005年から2006年にかけて、C.P.E.バッハのフルートソナタの連続演奏の催しを企画している。

 

 

ちょっときままにコンサート

2007年の夏に30年ぶりに突然、藤の台合奏団のメンバーの一人であるバイオリンのOSさんから電話を受けた。OSさんがたまたまこの私のウェブサイトを発見し、そこに自宅の電話番号が記載されていたからである。

東京府中市で彼が主宰しているサロンコンサートの案内であった。早速出かけて30年ぶりの再会を喜んだ。 「ちょっときままにコンサート」と名付けられたこのサロンコンサートは府中市の音楽院のサロンを使って3ヶ月に1回、主に音楽学校出身者の音楽家を集めて開かれている。 毎回のコンサートの最初はOSさんのバイオリン曲で始まり、観客の前でピアニスト、バイオリニスト、声楽家などの各出演者が順にそれぞれの腕前を披露する。 2008年の3月にこのサロンコンサートが10周年を迎えるのを機会にその37回目のコンサートを府中の森芸術劇場のウィーンホールで開催することになった。

OSさんから、藤の台合奏団当時によく演奏していたゲオルク・フィーリプ・テーレマンのトリオソナタを演奏したいので、一緒にやらないかとのお誘いを受け、リコーダー、バイオリンと通奏低音のためのソナタ イ短調 TWV42:a1 を通奏低音はピアノで演奏した。 

 

 

以後各回に出演して、テーレマンのリコーダー、バイオリンと通奏低音のためのトリオソナタを連続で演奏することとなった。  これまでに演奏した曲は次の通り。

 

2008年03月09日 第37回 テーレマン トリオソナタ イ短調

2008年06月19日 第38回 テーレマン トリオソナタ ニ短調

2008年09月28日 第39回 テーレマン トリオソナタ ト短調

2008年12月14日 第40回 CPEバッハ トリオ ヘ長調

12月14日は私の大好きな次男・カルル・フィーリプ・エマーヌエル・バッハ(C.P.E.バッハ)の唯一のリコーダー曲、バスフラウト、ヴァイオリンと通奏低音のためのトリオソナタ ヘ長調を演奏した。 この日はちょうど「この」バッハの没後220年目の命日である。

 

 

2009年06月21日 第42回 テーレマン トリオソナタ ヘ長調

2009年09月27日 第43回 テーレマン トリオソナタ ハ長調

2010年01月10日 第44回 テーレマン トリオソナタ ハ短調

 

フルートアンサンブル

1997年11月にフルートを購入してヤマハ音楽教室でレッスンを開始。 

1999年から2010年まで古賀至氏の個人レッスンを受ける。 

2010年からヤマハ大人の音楽レッスン フルートアンサンブルクラスにて古賀至氏の指導を受ける。

 

2008年11月30日 古賀至氏門下生 発表会
C.P.E バッハ
フルートとオブリガートチェンバロのためのソナタ ハ長調
ロイヤルパークホテル バー・ロイヤルアスコット

 

2011年09月23日 ヤマハフルート教室発表会
Bozza 三つの小品から 1番、3番
ヤマハ横浜地階スタジオ

 

2013年12月23日 ヤマハ音楽教室 フルートバイオリン合同発表会
J.S. バッハ ブランデンブルク協奏曲第5番

 

2014年05月02日 オープンドアフルートコンサート
C.P.E.バッハ 12の小品 WQ.81/H.600

 

2015年03月06日 オープンドアフルートコンサート

G. Ph. テーレマン 2本のフルートのためのカノンによるソナタ集」(原題: XIIX Canons Mélodieux ou VI. Sonatas en Duo a Flute Traverses, ou Violons, ou Basses de Viole) から

第1番 ソナタ ト長調 (TWV 40:118)

 

2015年10月04日 「フルートの仲間たち」コンサート 二俣川 サンハートホール

クーラウ Flute Duo Op.10 No.1

 

2016年08月27日 「フルートの仲間たち」コンサート 二俣川 サンハートホール

W.F.バッハ Duo Sonata e-moll

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