|
大きな転機は高校3年の時に来た。第2次大戦後、私達の家族は明治、大正、昭和にわたる実業家である平賀敏の子息達の好意で、大阪府豊中市の超高級住宅街にある平賀家の邸宅群の一角に小さな借家を与えられていた。平賀家の第32代当主平賀敏さんは慶応義塾で福沢諭吉に直接師事し卒業後東宮職を勤めた後に、明治の後年から大正初期にかけて、三井銀行の支配人で、名古屋支店長、大阪堂島支店長を歴任し、その間、阪急電鉄や宝塚を設立した大実業家である小林一三を直接の上司として育て、後年、その阪急電鉄や多くの会社の社長を務めた大実業家である。私の父は1924年(大正13年)4月に大阪実践商業学校を卒業後三井銀行大阪支店に就職し、その後2年間勤めた後、1925(大正14)年に平賀敏氏が実業界からの引退の機会に奈良の猿沢池畔に新築した別邸「平等荘」に住み込み書生をしていた。豊中の平賀家の広大な敷地の中には、戦後奈良から移築した洋館があり平賀敏氏の長男太郎さん夫妻(「ご本家」と呼ばれていた、因みに三男毅さん一家は邸宅群の東の屋敷に住まわれていたので「お東さん」、そして五男貞愛さん一家は「新宅さん」とそれぞれ呼ばれていた)
が住んでいたが、後になって外国人家族に貸していた。ここに1961年の初夏に、フルブライト交換教授として大阪大学に派遣されたカリフォルニア大学バークレー校の物理学の
Alan.
M. Portis 博士の家族が住むことになった。
Portis一家には二人の息子、Jon (6歳)と Stephen (4歳)がおり、私は二人の遊び相手をたまわった。これこそが生きた英語習得の実践になった。「ネスパ(場ではなく発破の「ぱ」)」と聞こえるのが「next
bus」であったり、「Why don't you do that?」が質問ではない、などなど。
私の「What
do you want to play?」が通じなくて、メードさんが「トゥカーシュ(私の名前のアメリカなまり)アスチョワチョワナPレ」(注*)と
助け舟。(ただしこのメードさんは子供アメリカ語もしゃべれる美しい日本女性、普段は美しい英語をしゃべっていた。)
それ以後、手紙のやりとりが続いていた
Portis 博士夫妻とは22年後の1983年の出張の際にカリフォルニア大学バークレー校に留学していた日揮の後輩である小林隆輔さん
(2022年3月現在 原子力規制庁福島第一原子力事務所長として津波で爆発した原子力発電所の廃炉作業の監視の責任者)
夫妻と共に、バークレーの大学の研究室と大学裏手の山の上のゴールデンゲートブリッジにかかる夕日を見下ろせるすばらしいお宅に訪問して再会を果たした。 Stephen
は不在だったものの、夫妻と Jon に22年ぶりに再会した。 Stephen
は 1985年(28歳)に MBA
の資格取得のためソニーでの研修で来日した際に24年振りに再会した。 また私達の家族がアメリカに在住中の1989年に私達家族全員で再度バークレーのお宅を訪問して歓迎を受けた
。 そして、またハワイで眼科医をしている
Jon とは 1993年(38才)にホノルル近郊の超高級住宅地の邸宅で、日系の美しい奥さんと共に再会した。なんとポルシェで迎えにきてくれたが、あの小さいオアフ島ではポルシェもかわいそう。
Portis一家との奇遇がある。
1983年頃の話。 私が勤めていた会社
(日揮) からスタンフォード大学に留学していた末松千尋さん
(現京都大学経営管理大学院教授) とこの Stephen
がなんと偶然にも大学の寮でルームメイトであった。
Portis
一家とは 10年以上も手紙のやりとりも途絶えて、果たして家族がまだバークレーにまたアランがカリフォルニア大学にいるのかどうか分らなかったので、1983年に会社からバークレー校に留学していた小林隆輔さんに頼んで調べてもらい
Portis
博士が引き続き現役の教授であることが分り、連絡をしてもらった。そして小林さん夫妻とともに自宅を訪問をした時に、奥さんのべバリーから、「タカシは言葉にうるさい(注**)のですってね」といわれて、どうして知っているのかびっくりした。Stephen
のルームメイトの末松さんが持っていた私の会社の社内誌に掲載された私の家族紹介の記事で知ったとのことである。当時末松さんはStephen
と私との間にそのような関係があったことも知らなかったし、Stephen
にしても子供の頃に大阪の豊中市で遊んでもらった私とルームメイトの末松さんが同じ会社に勤めているとは知る由もなかったはず。 ちなみに末松さんは留学終了直後に派遣元の日揮を辞めて
(ひと騒動あった)
、その後ビジネスコンサルタントとして活躍し、現在京都大学経営管理大学院の教授を務めている。
*
Takashi asked you what you wanna play.
臍曲がりの言葉遣い
***
「紳士服を買いたいのですが。」「お子様ランチをください。」「先生にいってごらん」「お月謝はこの袋に入れて納めてください」などの表現(自分に対する敬語)の間違い。 正しくは「拙者または愚夫の服」、「餓鬼の昼飯」、「教員であるところの私」、「(そっちが「謝」というならこっちは)「お恵み」」。
家の中で私を「お父さん」と呼んでいいのは私達の子供達だけ。
私が子供に、「お母さんに聞いてごらん」と言った場合は、子供は私の母に聞くことになる。
芸能人ゴシップに良く出てくる「入籍」という言葉にも抵抗がある。 男も女も初婚の場合は、親の戸籍から外れる「出籍」または新しく戸籍を作るので「作籍」が正しいと主張している。 戸籍制度は古いまま維持されているが、今や課税制度の一部にすぎない。 私の父は嫡男でもあったのに三重県亀山にある先祖の墓を見限って放棄した。 だから私の家族には「○○家」という考えはなく、最初に生まれた男の子供が「家系」なるものを引き継ぐということはない。 私の母もそのようなことを一度も言ったことはない。 2010年7月になって初めて母の父親の墓の存在を発見した。
「正月がなぜめでたいのか」という疑問を発し続けている。年間でめでたいのはあえていえば冬至(12月22日のことが多く、クリスマスと正月が近い)であると主張している。ではオーストラリアの冬至(6月22日ごろ)はめでたいのか、というと、それはむしろタスマニアであり、ニュージーランドあるいはアルゼンチンやチリの南部地方であろうと。北極点や南極点ではそれは春分である(南極点の春分は9月)。 仏教ではこの両日が「彼岸の中日」とはよくいったものだ。
ページトップへ戻る |
|
核燃料再処理工場設計仕様書
|
|
就職は教授の推薦で、全く名前すら知らない日本揮発油株式会社
(現日揮株式会社)
に自然に入社していた。まだどの会社も手をつけていなかった、核燃料再処理工場の建設のビジネスに入ることを決めた会社である。
フランスのガラスメーカーの流れを汲む「サンゴバンテクニクヌーベル SGN社」と組んで、日本で最初の東海村の核燃料再処理工場を一括受注することを計画していた。入社後3ヶ月の集中教育の後、初めての原子力工学出身者としての新米社員に与えられた最初の仕事は、サンゴバン社が作成した、設計基本仕様書と標準仕様書(英語)を読みとおすこと。5センチファイル10冊ほど。毎日毎日ひたすら読みまくった。これを全部読み通したのは私1人ではないだろうか。もとはフランスの技術であること、核燃料再処理という特異な分野であること、技術仕様書であること、などが新しい用語や文章建てに慣れ親しむ
こととなった。
ページトップへ戻る |
|
フランス語 |
|
技術提携先がフランスであるので、フランス語を習いにいった。
2022年4月15日追記
ウォーキングで上大岡駅の西口あたりを巡っていた時に、フランス語を習っていたカトリック教会のことを思い出した。 教会があった場所を
Google Street
で探すと、名前はカトリック国際協働会と変わって建物は違ってはいるが同じ民家だった。 習っていた時はもう少し敷地が広かったような気がする。

1年ほど通ったが、基本用語
と発音と文法だけは覚えたが、会話はできない。この経験は30年後にプーランクのオペラ「カルメル会修道女の対話」のリブレット(フランス語)を日本語に翻訳した時に生かされた。また、ISO9001
品質マネジメントシステム、およびISO14001環境マネジメントシステムの国際規格の日本語翻訳であるそれぞれのJIS(日本工業規格、英語からの翻訳)の誤りを発見したり、正しい解釈をするのに役立っている。フランス語は英語より文法が緻密であるため、関係代名詞の特定が英語より明確である。
フランス語を覚えれば、サンゴバン社のあるパリに駐在できると期待したが、叶わなかった。
ページトップへ戻る |
|
コゥボールツ
|
|
入社後の英語はもっぱら刷り物だけの世界であったが、英語のしゃべれるこの新入社員は、アメリカの提携先が日本で開かれた見本市の手伝いに駆り出された。放射線源のコバルト60を作って販売する会社である。Cobalt
を「コゥボールツ」と発音するのは、当たり前ではあるが、原子力用語を英語でしゃべるチャンスは少なかったので、大変新鮮な記憶として残った。日本では元素の名前をドイツ語やラテン語からとっているからである。ちなみに、
ウラン:ユーレイニアム
(U) (変換で「幽霊に編む」と出た!!)
プルトニウム:プルートゥニアム
(Pu)
このあたりの新しい元素は共通語であるが、古い元素では、
カリウム:プターッシアム Potassium
(K)
ナトリウム:ソゥディアム
あるいはソゥジャム Sodium (Na)
ところで、南部アメリカ人(ブッシュ大統領も)が
Nuclear のことを New Killer
と発音するのは皮肉。「ブッシュは英語も正しく発音できない」とケリー陣営から揶揄されていたが、再選され世界の緊張は継続する模様。
日揮はエンジニアリング会社としてかつては日本国内の製油所や化学工場の設計・建設してきたので英語を使う機会がないベテラン社員の中には、日本語と英語の区別や自分達だけの言葉と一般の言葉の区別がつかない人がおり外国人との会話で相手を悩ませることがあった。 次がその面白い例。
ヘーベ:
平方メートル(square
meter)のことを日本語では「平米」と書いてヘーベと読むがそれを英語だと勘違いして、sixty
haybay などと。
リューべ:
立方メートル(cubic
meter)のことを「立米」と書きリューべと読む、thirty
rewbay などと。
ミスク:
"miscellaneous
piping materials" を社内では略して "misc"
と表記し「ミスク」とよんでいる。これを一般用語だと勘違いして。
Will you identify the miscs to be installed today?
などど。通じる訳けないよ。
スピッツ:
"superintendent"
(現場監督) のことを社内で略して "SPIT"
と表記しているのを普通名詞だと勘違いして。Who
is the spit for the piping work of this area?
これも通じる訳けない。
ページトップへ戻る |
|
プロジェクトマネジメント
|
|
日揮での仕事はプロジェクトマネジメント。このプロジェクトマネジメント技術はもともとアメ
リカがTVAで知られるテネシー渓谷開発プログラムの推進に使いはじめ、冷戦時代の軍事技術開発特に核開発さらにミサイルの開発に始まる宇宙開発に応用して、その有効性が大いに認められ、その後多くのプロ
ジェクトと呼ばれる事業の管理に適用されるようになったものである。 日揮は「プラントエンジニアリング業」として石油関係のプラント建設にこのプロジェクトマネジメント技術をいち早く取り入れ、まねをしつつ学び、実践して、自分のものにしていった。この技術の活用が業績を伸ばす源となっている。
プロジェクトエンジニアとしてはこのプロジェクトマネジメント技術が必須であり、実戦を通じて先輩から叩き込まれるが、基本は英語である。優れたプロジェクトエンジニアであるためには、常に海外のプロジェクトマネジメントの新しい技術に目を光らせていなくてはならない。
プロジェクトマネジメントの実体は英語の技術であり、グローバルである。英語の分からない人にとっては、
プロジェクトマネジメントは鬼門である。(いいすぎか)
ページトップへ戻る |
|
植松邦彦さんのこと
|
|
入社3年後の1970年に動力炉核燃料開発事業団の高速炉開発本部への出向を命ぜられた。この事業団は後年の東海村のアスファルト固化装置の火災事故と敦賀の高速炉原型炉のもんじゅのナトリウム漏れなどで有名になった、当時科学技術庁の外郭団体で、高速増殖炉の開発と核燃料サイクル技術の開発を民間の力も利用して国の税金を使って行う組織である。私は、高速増殖炉開発本部の燃料材料グループに配属された。このグループは植松邦彦さんが責任者となり、
高速炉の燃料と材料の開発プログラムの実行の司令部であった。総勢5名からなり、私は燃料集合体の担当だった。
高速増殖実験炉「常陽」の燃料集合体の試作品を使った解体作業の立ち合い。 東海事業所。

高速増殖原型炉「もんじゅ」用の燃料集合体の試作品の検査。 住友電工熊取研究所。

リーダーの植松さんは京都大学土木科を卒業後、アメリカのマサチュウセッツ工科大学で原子力工学の博士号を取得し、当時の原子力工業界、学会では核燃料開発の最高実力者であった。 植松さんの英語は、「日本人離れ」で普通のアメリカ人よりも上手いとの評判である。動燃事業団では英語よりも核燃料開発で指導を受けたが、このようなものすごい英語使いの人の下で働いたことにより私の英語力は一段と向上した。 ちなみに植松さんは、OECDの原子力局長を勤め、動燃事業団の改組で生まれた核燃料サイクル開発機構の副理事長も勤めた。
動燃事業団での高速炉燃料開発本部での私の業務は、実験炉「常陽」装荷用の燃料集合体の製作と実験、「常陽」の付属施設である「燃焼集合体検査施設
(FMF)」の設計、原型炉「もんじゅ」の燃料集合体の試作、ナトリウム中での流動伝熱試験の企画とそれらの業務のマネジメントを担当した。
原型炉「もんじゅ」は後にナトリウム漏れを起こし高速増殖炉の弱点をさらし、またプルトニウムと廃棄物双方で未解決の問題点を隠蔽しながら、日本だけが無理やり推進している「核燃料サイクル」の危うさを露呈した。 私は「核燃料サイクル」は成り立たないと断言する。
ページトップへ戻る |
|
GE社での仕事
|
|
1972年、3年間の動燃事業団の出向から日揮に戻っての最初の仕事は、アメリカの
General Electric
社から受注した、日本原子力発電の東海第2発電所の廃棄物処理設備プロジェクトである。
この仕事は文書はすべて英語。 GEのアメリカ人が出席する会議は英語。このプロジェクトでは基本設計の責任者とプロジェクトマネージャを補佐するプロジェクトエンジニアを勤めた。業務の途中で、客先のGEへの出向を命ぜられ、なんと自分が所属していた日揮の業務を監査して、GEの上層部へ報告する仕事を命ぜられた。業務の全般に通じているプロジェクトエンジニアであり、放射性廃棄物処理技術に通じて、日本語と英語でのコミュニケーションができることからこの難題をこなす役が回ってきた。GEの事務所は当時赤坂にあり、高いビルの一室で仕事をしていた。丁度このとき、来日したアメリカのジョンソン大統領がヘリコプターで迎賓館に降りるのが窓越しに見えた。
ページトップへ戻る |
|
ベルギー社との仕事
|
|
原子力施設から排出される放射性廃棄物の量を少なくするための技術のひとつに溶けたアスファルト
と混ぜて固形化する方法が実用化されようとしていた。1975年、関西電力美浜原子力発電所からの引き合いがあり、この技術を実用化したベルギーのベルゴニュクレール社
(Belgonucleaire SA)
と提携し、この会社が開発した技術で応札することとなり、ブリュッセルに派遣された。これが会社に入って最初の海外出張。たまたま、ヨーロッパへ行くのであればついでにウィーンにある会社のある装置技術を見て来いとの命令に、音楽好きの私は、、、、
英語でのコミュニケーションが出来なければ、この機会は回ってこなかったかもしれない。
ちなみにこのとき同時に動燃事業団の東海村の再処理工場の廃液をアルファルト固化するプロジェクトも同時に並行しており、こちらを担当する同僚も一緒であった。私の担当した電力向けは日本の競争相手が日揮の半額で応札したので見事に敗退したが、再処理工場向けは受注に成功した、、、、が、運転中に爆発、火災、放射性物質の漏洩事故を起こし日本の原子力推進政策に大打撃を与えた。
ページトップへ戻る |
|
FESAE
|
|
1980年頃、会社で英語によるプロジェクトマネジメント講座のファシリテータをしていたアメリカ人の
Craig van Anneさん
が私の関心を見て取ったのであろう。日本に在住する非日本人のエンジニアを中心とした、Far
East Society of Architects and Engineers (FESAE・極東建築家・技術者協会)に誘われて、毎月1回東京の狸穴にある、アメリカ大使館の別館にあたるアメリカンクラブでの会合にでるようになった。 ここはすべて英語での親睦と技術プレゼンテーションの場である。
この会は「極東」という名前で分るとおり、もともとアメリカ駐留軍の技術者が中心となって設立されたもので、当時の事務局長は大日本土木株式会社の創業者安田梅吉の若き御曹司
(次男)
で同社の役員でもあった安田隆彦さんで、参加者に対して親切丁寧に対応していた。
アメリカンクラブでの毎月の会合は、軽い飲み物で(私たちの日常からすると公式のパーティ並み)のおしゃべりから始
まり、正式の晩餐の後、それぞれの事前に指名されていた人がそれぞれの分野の専門家の立場から英語で1時間程度のプレゼンテーションを行う。
Craigさん
の積極性にも影響されて、私自身もこの会の理事を引き受けて会の運営にもタッチするようになった。
時には
Inspection Tour
と称して、国内の各地の見学会も行われた。野田市のキッコーマン醤油の工場、新技術建設現場など、「日本の文化」と「日本企業」の高度技術の両方に関心が向けられた。建築家にとって「日本の伝統」といえば、京都の桂離宮で
ある。当然 Inspection Tour
の計画が行われ、所轄の宮内庁からも内々の特別の承諾が得られ、さて、参加予定者を宮内庁へ連絡すると、なんと「『日本人』が入っているからだめだ」とのことで、これにはさすがの非日本人たちもあきれ果てて、結局、この計画はご破算になってしまい、日本人(私が「日本人」であることはしかたのないことである)として、日本政府や日本の皇室制度に異議あり。
1983年のアメリカ出張の際にはすでに高齢で引退している、FESAEの初代会長をサンフランシスコ郊外のパロアルトに訪問して、その様子を報告しメンバーに大変感謝された。
この会では、私のアイアンマン成就を祝ってもらい、またクリスマスパーティには仲間のバロックアンサンブルが出演して喜んでもらったことなど、楽しい思いはつきない。
私のグローバル気質はこの会を通して大いに促進したといえる。
ページトップへ戻る |
|
品質保証国際会議
|
|
1981年パリで開催された原子力施設における品質保証に関する国際会議に原子力業界団体のツアーで参加した。
会議の後3週間かけてヨーロッパ、カナダ、アメリカの原子力施設およびNASAを視察訪問旅行をした。このツアーでは私は英語でのコミュニケーションが得意ということで、渉外幹事を仰せつかり(というより志願し)、行く先々で訪問先との間のコーディネーション役となった。この役得でほぼ毎日夕方に行われる幹事会や先方との打ち合わせ会では立派なレストランでの、最高の饗応に与かれた。その中でもバルセローナのロブスターレストラン、パリのビストロそれにリヨンの最高級レストランは、私の「レストラン考」の原点となっている。おっとこれは「グルメ」
のページではなく「英語」のページでした。
ページトップへ戻る |
|
バージニア電力
|
|
1980年代の初めからは国内の原子力発電所の放射性廃棄物の多くの建設プロジェクトのプロジェクトマネージャを勤めた。
1985年ごろ、日本原子力発電から、技術提携先の米国のバージニア電力会社から、日本における原子力発電所建設に関するプロジェクトマネジメント技術の現状を知りたいといっているので日揮から誰かよこしてくれないかとの依頼
がきた。
英語でプロジェクトマネジメント、それも原子力発電所建設のプロジェクトマネジメントを説明できる人ということで、私にお鉢が回ってきた。
これを切っ掛けにして、バージニアパワー社がバージニア州に保有する二つの原子力発電所に新たに放射性廃棄物処理施設を建設するプロジェクトの国際入札に参加資格を与えられ、ドイツ、アメリカの企業との競争に打ち勝ち、
日揮が受注した。これは日本にとっては初めての原子力技術の海外輸出、それも、これまではそこからすべて学び輸入ばかりしてきた国、アメリカへの輸出となり、日本の工業会のエポックとなった。
ページトップへ戻る |
|
アメリカ移住
|
|
このプロジェクトは見積業務から担当していたので、自分が最高責任者のプロジェクトマネージャにな
れると思っていたが、残念ながら幹部の人の眼鏡に適わず、お金とスケジュールの管理の責任者であるプロジェクトコントロールマネージャの立場に甘んじざるを得なかった。
この仕事は円高が極端にすすんだ1987年に始まったために、極力いわゆる「日本人」と日本国内で生産された物を使わない戦略をとり、設計もすべてアメリカの会社に任せることと、数人の社員だけをその管理のためにアメリカのプロジェクトオフィスに派遣して実行することとした。私がその責任者として事務所長に任命された。
この事務所は首都ワシントン郊外のメリーランド州ゲイサースバーグ
(Gaithersburg)
という町にある、アメリカの原子力施設エンジニアリング会社である、NU社の内に設置した。銀行口座開設、自動車の購入、派遣者家族のアパート契約、家具調度品の調達、運転免許証の取得、子供達の学校、パソコンの購入、設定、各種保険契約、税金のこと、などなど、
すべてプロジェクトマネジメントの教科書には出てこない新しい仕事をすべて英語でこなすこととなり、おかげで最初の2週間でさらに英語に磨きがかかった。
サンドウイッチ(変換で「賛同一致」とでた!!)を買うのにも相当な英語力が必要である。パンの形、粉の指定、ハムの種類、野菜、マヨネーズやマスタードの要否などなど南部なまりのきついおばさんの矢継ぎ早やの質問に即座に答えないと自分が考えているものが口に入らないのだ。
運転免許証の試験が英語であり、私たちの会社の中堅エンジニアでも何度か失敗してるので、奥さん達は大いに心配したが、どういうわけか、皆一発合格であった。
"Curb"(この言葉は良く出てくる)
をカーブだと思い違いしているのに。
同じものを表す「フロントウィンドウ(前窓)」と"Wind
shield"(風よけ)
が全く違う言葉であるのに同じ語感であるのも面白い。「キャブレータ」は「カーブレタ」。「ハンドル」は棒状のものを指すので英語では「舵取り車」。「デフ」は「差分歯車」なので「ディフ」。「アクセルを踏む」のでなく「ペダル」を踏む。かつて日本の高級車の後に「AUTOMATIC」のエンブレムが輝いていたが、何が「自動」であるのかが理解されなくなる時代も近い。日本の車は、Delux,
Saloon, Super, Special, Limited, 庶民が乗っても Royal,
Imperial, 運転手と一緒に乗っても Brougham,
会社の部長もVIP,
などなど、心の貧しさを表す英語にあふれていた。「豪華」なDelux
はStd の次で下から2番目の意味でもあった。
初めてのパソコンの使用が英語環境で国際標準機、IBM
AT
とその互換機からスタートし、日本では紹介もされていなかった
Microsoft Windows
をいち早く使うこととなったことはラッキーであった。日本のパソコン環境はNECを始めとする日本仕様の鎖国状態が長く、現在ようやく解かれてすべての日本のパソコンがすべて国際標準機を採用することとなったことで明らかである。
マイクロソフトがアップルに対抗して成功した
Windows
で日本にも攻勢を掛けていた頃、国内のパソコンシェアで他を圧倒していたNECは、「日本は日本語だからやはり日本のパソコンすなわち"98"でなくては」のような大々的なコマーシャルや新聞広告を出して抵抗していたが、そのときすでにNECはひそかに
Windows
への転換を決めていた。消費者だましの関本ビジネスの典型。
1990年の帰国後、アメリカから持ち帰ったAT互換機であるデル286とオースチン386を会社に持ち込み、英語での仕事に使い、また英語版のWindowsや
Windows
環境の英語のアプリケーションを社内に紹介した。まもなくIBMが日本仕様機を止めたいというIBM社内の都合からAT互換機で日本語を動かすことのできるDOS/Vを発表した。まだAT環境をほとんど扱っていなかった秋葉原でようやく手に入れた発売早々のDOS/Vを自分のパソコンに組み込み、かたずを飲んで見つめるVGAモニタ画面から初めて日本の文字が現れた時の感激はひとしおであった。DOS/VとVGAモニタがあれば世界のどのパソコンでも日本語が扱えるようになったことに我が意を得て、社内のパソコンの国際標準機への転換と
Windows の普及活動を社内の電子フォーラム(社内電子コミュニケーションシステムの"All-in-one"上で動く電子会議システム)を主宰して積極的に展開した私に対して情報システム部とネック派の抵抗は激しかった。情報システム部は鎖国で海外事情を知らず、ネック派はNECの悪質な宣伝にまんまと乗せられてだまされていたのだ。
ページトップへ戻る |
|
子供達のアメリカ英語生活
|
|
アメリカ移住時の3人の子供達。娘の文は中学1年終了、すでに日本の中学校で1年間英語の授業を受けている。 息子の工は小学5年生終了、史は小学3年終了で、英語は未知の世界。
1988年3月のイースターの頃、家族がワシントンダレス国際空港に到着したその日の内にそれぞれを現地の学校につれて行き、簡単に入学手続きは終了した。
それぞれクラスの教室につれていかれて、驚いたことにすでに新入クラスメートの受け入れ準備が整っており、しか
も英語が全く分からないことを前提にした、オリエンテーションが行われた。子供達を残して、会社に戻り、さて、
夕方家に帰ってみると子供達は皆、一様に楽しかったと。
このアメリカ東海岸ワシントン郊外には、多くの国籍の人々がおり、また中にはベトナムや、南アメリカからの難民の家族も多く住んでいる。さすが人民が作った国家、アメリカである。学校はこの国に住むものはすべて「アメリカ人」として差別をしないのが建前なのである。
英語がしゃべれない人は特別の人ではなく、世界中から人が集まって成り立っているこの国では「英語」民だけではないことは折込み済みである。難民だけでなく、私たちのようなビジネスでこの国に来ている家族で英語が分からない子供達のためにも、英語教育のカリキュラムがきちんと整っている。ESL(English
for second language)クラスである。社会科や理科の英語での授業はちんぷんかんぷんであるのでこの時間にはESLクラスへ行って英語を学ぶ。体育や工作の時間は言葉が通じなくても構わないから自分のクラスに戻る。算数などは、日本の方が進んでいるのでクラスに参加しなくても弊害はない。子供達は一歩家を出るとそこは、英語の世界。遊びも、買い物も、レストランも、なにもかも英語の世界。
おどろき桃の木。暫くすると、子供達が私の目の前でアメリカ人と英語でしゃべっているではないか。家に同級生を大勢連れてきて、ゲームをしたり、おやつを食べながら、楽しそうに「語り合っている」のである。しかも私にはわからないのに、子供同士では意思が通じているのである。恐れ入りました。
言葉はコミュニケーションの道具である。学問ではないのである。必要だからコミュニケーションするのである。そのために言葉を使うのである。この当たり前のことが、身にしみた。
業務遂行に関する意見の相違から上司との衝突が原因で、2年後、1990年3月に業務半ばで帰国命令がでた。家族は私に「会社をやめろ、アメリカに移り住もう。」と迫ったがそれもならず、まず私だけが1人で帰国し、子供達はアメリカでの学校年度の終る6月まで残ることとした。ビザの関係で不可能と思えたが、会社もよく認めてくれたものだ。この間、私は日本への出張ということになっていた。
3人の子供の英語の違いと活用状況
長女文は日本の中学校での1年間の英語授業が邪魔をして、思い切ってアメリカ英語に入れなかったことがやや災いした。
しかし帰国子女だけの高校に入り、引き続き英語に対する刺激があった。 大学卒業後はグローバルな大製薬会社やアメリカの製薬会社に勤務し、海外出張もこなすビジネスウーマンとして活躍。 現在は結婚してビジネス社会から引退した。
長男工は日本での英語経験はないが、英語に対する好奇心が強く、積極的に取り組んだ。文法やスペルにも関心を持ったことで、読む、書くことも自由になった。朝日新聞社に入社して3年間の地方支局勤務のあと東京に戻り社会部事件記者として警視庁記者クラブに配属されて東京都内を日本語での取材だけとなり英語が錆び始めたようだ。
その後、仙台で3年間勤め、東京に戻り社会部で国土交通省担当、デジタル編集部
(ロンドンオリンピック担当)、労働組合出向を経て、再び社会部警視庁記者クラブのサブキャップ、西部本社社会部デスク、東京本社社会部のデスク、現在は社長室。 オーケストラやオペラの公演でファゴットを演奏し、アメリカやヨーロッパのコンサートに出かけている。
次男史はコミュニケーション志向で、分かれば良いというアプローチをとった。聴く、しゃべることは自由になった。
しかし小学6年で日本に帰り、中学に入り英語の時間に英語でしゃべったら、教師に理解してもらえず、また逆に史には教師の英語もまた理解できなかった。 日本の英語の教科書で初めて、自分がしゃべっていた英語はこのように書くのかということが分かったという。 現在食品会社で海外子会社のサーモン養殖や魚の現地加工管理や輸出入を担当し、ヨーロッパ・アメリカ・東南アジアを飛び回って英語を駆使している。
ページトップへ戻る |
|
インドネシアプロジェクト
|
|
1990年、米国メリーランド州のゲイサースバーグ事務所長を勤めている時にプロジェクトの運営に関して原子力事業本部の副本部長と諍いを起こした。 それからまもなく解任されて帰国を命じられ、自分が初代本部員
(1967年に発足した日揮初の原子力チームは5人体制でスタートした)
だと自負していた原子力事業本部から国際事業本部へ移された。 原子力事業本部はうるさい社員を放逐した積りだったと思う。 配属はインドネシアの巨大製油所コンプレックスの新設工事プロジェクト
(EXOR-I)
のプロジェクトコントロールマネージャ。 スケジュール計画、スケジュール調整、進捗度管理、顧客への月例報告書作成。 毎月、英語でプロジェクトマンスリーレポートを作成して製本して提出する。 これが承認されないとその月の顧客からの支払い
(毎月約 100億円程度)
がストップしてしまう。 その英文をチェックして、正しい英語をアドバイスしてくれたのが、日揮全体の英語の管理をしていたアメリカ人の
Mr. D.C. この3年分のレポートの作成で英文作成能力がかなり高められたと思う。 私の作成したレポートはその後日揮の英文プロジェクトレポートの雛型として使われるようになった。
ページトップへ戻る |
|
カタール
|
|
1996年3月、日揮はアメリカのエンジニアリング会社、Kellogg社と共同でカタール国のラスラファン工業市に建設する天然ガス処理プラントの建設を受注した。契約締結と同時にこのジョイントベンチャのカタール国での代表者に就任し、首都のドーハに事務所を開設して所長として
1997年7月まで滞在した。
(別途作成予定)
ページトップへ戻る |
|
プロジェクトマネジメント協会
PMI・GPMF・IPMA
|
|
当時、日揮では石油や天然ガス以外の分野のプロジェクトを行き当たりばったりで遂行する傾向があり、そのために効率が悪く、損失も出ていたので、この分野のプロジェクトで培ったプロジェクトマネジメントの技術を彼らに指導するための部門、プロジェクトマネジメント技術部ができ、私はその専門家としてこの部門に配属された。(私にとっては、日揮に入って初めての間接部門勤務。窓際に押しやられたともいわれる。)
プロジェクトマネジメント技術部在任中は、プロジェクト遂行中とは異なり時間的余裕があったので新しい技術を知るために、アメ
リカのプロジェクトマネジメント協会である
Project Management Institute (PMI)の年次大会に参加した。上司である部長はプロジェクトマネジメント技術に関心がない人で話しても無駄であったの、だまって休暇をとって自費で参加した。私たちのような企業人が休暇をとって自費で参加することはほとんどないことであるが、企業の束縛から自由になることが大きなメリットとなった。ロサンゼルス郊外のロングビーチでの大会では、宿舎はあの英国豪華客船のクイーンメリー号であっ
た。たまたま日本側の協会代表であった、同じ会社の同期入社の田中弘君が体調の関係で公式参加できななったため、
私に先方の重要人物へのメッセージを託されたのが幸いした。PMIの会長はじめ理事役員、それに世界中の協会の代表とも自由にまるで日本の代表のような顔で交流につとめ、極めて短時間の内に人脈を形成することができた。
この直後に日本でのプロジェクトマネジメント協会として新たに発足した日本プロジェクトマネジメントフォーラム
(JPMF)では、田中弘君からの後押しもあり、国際交流部会の運営を志願し副部会長に就任した。
日本のJPMFの最初の国際大会にはPMIの会長夫妻を招待することになり、私が接遇係を仰せつかった。日本の大会であり発表が日本語で行われるのでPMI会長ご夫妻は会場に居ても仕方ないので半日の東京見物に連れ出した。これを機会に夫妻との個人的なおつきあいが始まった。
この年秋のPMIの大会はフィラデルフィアで行われ、これにもまた休暇をとって自費で参加したが、今度は妻も同行した。
期間中、PMIの会長夫妻は東京での接遇の返礼の意味を含めて、私たち夫妻を最高にもてなしてくれた。
大会後妻とレンタカーで10年前に住んでいた、メリーランド州フレデリックを訪問し、ご近所の皆さんとの再会を楽
しんだ。
フィラデルフィアの大会では世界中のプロジェクトマネジメント協会の代表が集まって、Global
Project Management Forum (GPMF) が開催された。GPMFではプロジェクトマネジメントの世界標準を策定すべく、ワーキンググループをつくって活動することが合意され
たので、この機会を捉え、これまで発言をしてこなかった日本がいよいよ打って出る時であると信じ、帰国後JPMFに計り、このGPMFの世界標準策定ワーキンググループの日本代表に就任した。
標準策定ワーキンググループは、デンマークの郊外ヒレロド*で作業部会を行うことになり、また休暇をとって参加した。
*
2022/12/14 追記:
知り合いになったデンマーク人に
「ヒレロド Hillerod」に行ったことがあると伝えたらそんな町は知らないと言われた。 そこで地図で示したら
Hillerød (Danish pronunciation:
[ˈhiləˌʁœðˀ])
だと分かった。 発音をしてもらったら真似をするのが全く不可能だった。 Wikipedia
では「ヒレレズ」と仮名書きされている。
そこは国立薬科大学の研修所であったが、到着した翌日食堂へ行って見ると、ロサンゼルスやフィラデルフィアで会って顔見知りのヨーロッパ各国の協会の会長が勢ぞろいしていた。何事かと聞いてみると、ヨーロッパを中心としたプロジェクトマネジメント協会の連合組織である、International
Project Management Association (IPMA)
の理事会をしているのだという。 早速、日本からわざわざ来たのだからとその理事会の会議にオブザーバとして参加してよいかと聞けば、皆大歓迎とのことで、スピーチまでする機会を与えられた。「日本はIPMAに加盟していないが、ここに署名して永田さんだけでも加盟したらどうか」など冗談もでた。「『日本人』の組織」のえらいさん達とは違って、欧米のそのような人たちはいずれも人なつっこく、親しみやすい人たちであることを改めて実感した。
理事会の後、私と同じようにIPMAの会員ではないけれで、はるばるオーストラリアから駆けつけた、部会のリーダーを務めるオーストラリア協会のシドニー工科大学の
Lynn Crawford 教授(女史というのが似合っている元気なおばさん)と、ヨーロッパのメンバー4人を加え、6人での
標準策定計画作業がこの研修所にこもって3日間行われた。
この間、疲れてくると、聞いている言葉が頭の中に入ってこずに理解できないという事態が生じた。いままで、仕事ではなんとかやってきた英語も、頭の疲労には勝てないということを実感したデンマークでの有意義な作業だった。
ページトップへ戻る |
|
ISO国際規格 |
|
プロジェクトマネジメント技術部では、多くのプロジェクトマネージャに対して親切丁寧にプロジェクトマネジメント技術を教えたが、彼らには余裕がないのか、地道に技術を磨くよりも自分勝手にやる人が多く教え甲斐がなくなった。そこで、この部門を廃止することとし、1999年4月に志願して
Quality Management 部門へ転進した。
ISO9001の品質マネジメントシステム規格に基づく、業務遂行を押しし進める部門である。たまたまこの規格が改訂されることになり、会社のシステムも変更が余儀なくされ、その変更ワーキンググループリーダーとなった。この期間、ISO9001規格の変更ドラフトの段階から英文で読み込み、規格要求事項を原文できっちり理解した。
2000年12月に変更規格が発行され、日本規格協会で日本語に翻訳されて、日本工業規格として発行されたが、日本語で読むとこの規格の要求事項を誤解することとなる。
多くの日本の会社や組織がこの翻訳された日本語だけをたよりにこの規格に基づく品質マネジメントシステムの認証を受けることになるが、本来の解釈から外れて頓珍漢なことをやってしまう恐れ(本末転倒のおふざけ)がある。
日揮では海外プロジェクトを英語で実行するので、この日本語の規格は不要であることが幸いしている。世界中どこへ行っても共通の英語で誤解することは少ない。
ページトップへ戻る |
|
英語いろいろ
|
|
横浜に来たあるスコットランド人の「英語」には閉口した。私以上にアメリカ人が分からないと言っていた。しかし、この「英語」が「古語」から派生した英語であることが分かり、スコットランド英語も勉強したい。オーストラリアと同様にエイとアイと発音する。3人のスコットランド人とのお付き合いをしたが、英語は3人3様であった。
印象にのこる地方英語:
インド・ケララ州(テレビのアナウンサがしゃべっているのを英語だと思わなかった)
スコットランド(古い英語)
アメリカ南部
フランス
オーストラリア("Paper"で一瞬思考が停止し、気が"Piper"へいってしまう)
日本
印象に残らない地方英語:
アラブ
フィリピン
スペイン
北欧
中国
ページトップへ戻る |
|
私が影響を受けた英語使いの人々
|
|
中学の北小路政子先生
バークレーのPortisさん一家
動燃事業団の植松邦彦さん
日揮のアメリカ人、 FESAE の Mr. Craig van Anne
トライアスロン仲間の香港のイギリス人女性、Ruth
Hunt と Kim
Isherwood
日揮の英語担当のアメリカ人 Mr. D.C.
日揮の同僚でイギリス人の Mr. M.L.
Far East Society of Architects & Engineers (FESAE)のみなさん
国際トライアスロン連盟加盟の各国協会代表者
アメリカでの同僚やご近所の方々
チェコのパルドビッツェ事務所のチェコ人秘書のドヴォルジャコヴァさんとクラークのマルケタさん
カタールで一緒に仕事をしたりお付き合いした次の皆さん
ドーハ事務所の、コンピュータ担当のギリシャ人のGK君、調達担当のパレスチナ人のMA君とその家族、設計管理担当のレバノン人のSK君、秘書のインド人のUNさん
とご主人、フィリピン人クラークのGZさんとオランダ人のご主人、ビラのクラブハウスのパキスタン人の○○君とシェフのフィリピン人の○○さん、ビラの住人のアルメニア人のTさんご夫妻、カタールのスポンサーであり同じビラに住んでいたレバノン人のSさん一家、カタール随一の実業家で日揮のスポンサーであるFAさんご一家、友人のネパール人のPG君、クリスマスパーティに招待してくれたルーマニアの皆さん、安全担当のイギリス人のAWさん、顧客のカタール人のMAさん、ラスラファン市長のMさんご夫妻、輸送会社のデンマーク人の○○さん、観光ガイドのトルコ人の○○さん、検査担当のクロアチア人のBさん、建築家のエジプト人の○○さん、スコットランド人の○○さん(横浜のスコットランド人
とは別人)、大勢のアメリカ人、イギリス人、オーストラリア人のみなさん。(みんなとは英語で口論、叱責、なだめすかし、喧嘩までしました。)
世界各国の Project Management 協会 (特にアメリカのPMI、オーストラリアのAIPM
とヨーロッパのIPMA) のリーダーのみなさんとGlobal
Project Management Forum (GPMF)のみなさん
日揮のプロジェクトでご一緒した、ベルギー、チェコ、アルジェリア、スペイン、イタリア、リビア、サウジアラビア、フランス、イギリス、アメリカ、クウェート、カザフスタン、インド、マレーシア、シンガポール、インドネシア、パキスタン、フィリピン、中国、韓国、台湾のみなさん
息子の工
中学2年生のとき英検3級で全国一番の成績をとりその年の全国表彰式に代表受賞者として招かれたが本人は神奈川県のアチーブメントテスト当日だったので私が代理出席して舞台上で表彰を受けた。そこで錚々たる英語使いの日本語人の面々と知り合った。
ページトップへ戻る |
|
私の履歴書(5)
<音楽・楽器>へ |
|
TOP
> 私のこと
> 私の履歴書 - (4) 英語・海外生活・国際交流 |