|
1984年2月のクロスカントリースキー講習会では永谷さんの他にあと二人のトライアスリートが参加していた。その内の一人が川口市に在住のSHさんは当時飛ぶ鳥を落とす勢いのトライアスロンクラブ、JTRCの有力選手であった。彼の紹介で私は
JTRCの神奈川支部に入会した。
この会は当時の日本トライアスロン選手界では知らない人がいない矢後潔省さんとい
う実力者が会長としてしてトライアスロンの普及に大活躍していた。
1984年のハワイ・アイアンマンへは
JTRCもツアーを組んで参加することにしていたが、別のツアーで参加することにしていた私はクラブメンバーであったので、JTRCの練習会には積極的に参加してアイアンマンに備えていた。
ハワイアイアンマン以降もJTRCのメンバーとして首都圏の練習会には参加していた。
この年、JTRC
の運営をめぐってメンバー間での抗争があり、JTRCのメンバーのうち首都圏で活動していた代表者的な清水仲治さん、技術指導者だった猪川三一生さん、トップトライアスリートの中山俊行さんや山本光宏さんなどの主要なメンバーが
JTRC を脱会して全日本トライアスロンクラブ (ATC)
を設立した。 JTRC と ATC
とは互いに切磋琢磨しつつ、全国的規模でメンバーを増やしてトライアスロンなどの耐久競技で競いあっていた。
1986年の春に日本トライアスロン協会が発足し私が理事長に就任してまもなく、JTRC会長の矢後潔省さんから来た一通の葉書で私は
JTRC
を除名されてしまった。理由は書かれてはいなかった。早速
ATC
から入会の誘いがあったが、これはお断りした。協会発足直後は協会業務に忙殺されていたので、クラブ活動はむしろ控えたほうが良いだろうと判断した。 協会の北海道担当理事になった人も
JTRC
を除名された。どうやら矢後さんは新生日本トライアスロン協会に対しては納得していなかったためであろう。
日本のトライアスロンクラブの草分けとしての自負があった
JTRC の孤立と優秀な選手を集めて活動を広げる ATC
の積極さが際立った。
一方老舗の熊本クレージートライアスロンクラブ(CTC)は会長の永谷さんの人格によるところが大きく、家族的なクラブ運営に徹して、首都圏で繰り広げられているクラブ間の抗争には縁がなかった。
ページトップへ戻る |