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水泳

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永谷誠一さんとの出会い

ハワイ・アイアンマン・トライアスロン世界選手権

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トライアスロンクラブのこと

第1回宮古島大会

国際トライアスロン選手権大会(香港)

第2回宮古島大会

長嶋連盟

国際トライアスロン連盟

トライアスロン活動の終結

その後

 

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私の履歴書(2) トライアスロン

水泳

小学校4年の夏休み、母親の命令で、宝塚の動物園内に設置されている50メートルプールでの水泳学校に入れさせられた。初日の最初に足の立たない5メートルの距離を水を飲みながら半分溺れながら、死ぬ思いで泳がされた恐怖が脳裏に深く刻みこまれた。 その翌年に通っている小学校にPTAの寄付で市内の小学校で最初のプールが出来た。 宝塚での成果で5年生で特練生になった。学校近くの寮に生活していた、当時のこの列島での女子水泳界の最高峰、東洋レーヨンチームのお姉さん達がこのプールを借りて練習していた。橋爪四郎さんも来て私達にも教えてくれた。 5年生で市内小学校大会2位、6年生でチャンピオンになった。

大阪府豊中市立克明小学校 水泳特別練習生

上段の女性陣は東洋レーヨンの選手たち

私は5年生。 最前列右から3人目。 全く強そうではない。

1954年 (昭和29年)8月

 

しかし進学した中学校にプールはなく選手活動はなし。高校でふたたび水泳部に入ったが時すでに遅し、大阪府大会にはやっと出場できる程度。

以来トライアスロンをはじめるまでの20年間はブランク。しかし、そこは小僧の念仏、初期のトライアスロンではこの列島の一流選手よりも早かった。1500メートルを25分程度。ハワイアイアンマンでは3.9キロを1時間23分。

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自転車

1962年大学1年生の時、友人と紀伊半島一周自転車旅行を行う。これを機会に住まいのあった豊中市で「豊中サイクリングクラブ」を結成し、小学生から60歳までの会員と全国をサイクリング。 愛車は城東輪業社「ワンダーフォーゲル号」の真っ赤なランドナー。 関西周辺を隈なく走りまわり、広島や四国などまで足を伸ばす。 会報誌「輪友」では謄写版技術を磨く。 英国式のサイクリングスタイルを推進(ニッカボッカにハンチング、650Bタイヤにサドルバッグのよき時代)。

豊中サイクリングクラブには中学生だった俳優で映画監督の火野正平さんもいた。かわいい子で、当時は子役で映画やテレビに出演しており、忍者役で主演した番組が人気で、ニックネームは「サル」だった。同じ中学生のメンバーで大きな屋敷の坊ちゃんの筏純一さん(現・リボン食品会長)は服装などのセンスが抜群で当時流行ったアイビールックやイギリスのサイクリストファッションをクラブに紹介してくれた。

後日保土ヶ谷に移り住んで、35歳頃になって運動不足を補うために、豊中時代から有名だった 保土ヶ谷駅近くのブルーウィートサイクルでロードレーサ(ブリヂストン・グランヴェロ、シマノ・デュラエースモデル)を組んでもらった。ご主人の長島さんはご夫婦と若主人と昔を懐かしんで見せてくれたサイクリング雑誌(旅とサイクリスト)に私の記事が載っているのを教えてくれた。さらに後年にトライアスロン協会の役員時代に日本サイク リング協会に招かれてトライアスロン講習会の講師をした縁で事務局長だった前田一郎さんと実懇になる。 豊中サイクリングクラブにも同姓同名の年輩の「前田一郎さん」がいて、自転車文化を教わった。この愛車のロードレーサーは、1984 年にハワイアイアンマンを走り、カタールやネパールにも連れて行った。

 

カタールのドーハ駐在中もロードレーサーを持ち込んで走っていた 

フィリピン人のロードレース仲間と

 

62歳9ヶ月の2006年6月、昔やった「サイクリング」をまたやりたくなって40年前のデザインのサイクリング車を購入してサイクリングを再開した。

 

「自転車の文化」については薀蓄を別の機会に別のページを作る。

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マラソン

中学の体育の時間、若い体育教師にどやされて校庭10周2000メートルを走り心臓が破裂するのかと思うほどの苦しさを体験し、それ以来「走ること」を極端に軽蔑し40歳手前まで来た。動物の基本である「走り」を拒否し続け、「走れないまま」、「走らないまま」後世を過ごし、走ることなしに死にたくなかった。そのとき、週刊朝日で1983年2月から「あなたにも1年でフルマラソンが走れます」シリーズが始まり飛びついた。

その年の5月にアメリカ出張の機会に、育った豊中での隣人であった、カリフォルニア大学バークレー校のAlan. M. Portis教授の自宅を訪問した。訪問前日に雨の中、バークレー校のグラウンドでジョギングをした。

Portis さんにそのことを話したら、彼はデンの壁一杯に張られた数多くのマラソンのゼッケンを見せてくれた。これが私のマラソン成就祈願をさらに触発した。

毎週水曜日発売の週刊朝日で出される プログラムを正確に守った。Portis さんから贈られたアメリカのマラソンの完走Tシャツもまた励みになった。この年の夏にPortisさんの次男の Steven が来日し家族と富士登山をした。この時の駆け足登山はランニングトレーニ ングの成果を実感した。

初めてのフルマラソン出場となった1984年2月の朝日佐倉マラソンでは3時間53分で、まさに「見事」完走。嬉しかった。 次の週発売の週刊朝日には、夏の猛練習による脱水による尿管結石での3週間入院の記事と共に完走記が掲載されて鼻が高かった。翌年は3時間10分。

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永谷 誠一さんとの出会い

1984年2月佐倉で初マラソン完走の直後に月刊ランナーズ主催のクロスカントリースキーの講習会に行った。そこで、トライアスロンをしている3人に出会った。熊本でアウトドアスポーツのお店を経営している永谷誠一さんは前年のハワイアイアンマン。 この列島で最初のトライアスロンを鳥取県皆生(かいけ)温泉の方々と協力してはじめた人。 その前年に、日本経済新聞の文化欄に永谷さんと共の皆生トライアスロン発祥に尽力し、ご自身もアイアンマンである熊本の高齢の外科医師、堤貞一郎氏の経験談が大きく掲載されたのを読んで、トライアスロンを夢を描いていた私は、永谷さんの「水泳が得意で、自転車(ロードレーサ)も持っていて、 フルマラソンも完走したのなら、トライアスロンをやりなさい。」の一言で私の「やりたがり屋魂」に火が放たれた。みさいかいも無く、さっそくハワイからアイアンマンの資料を取り寄せその年の10月のアイアンマン世界選手権に出場を申し込んでしまった。この以後、半年程の間の激し過ぎる練習と、そのような短期のトレーニングでのアイアンマン出場は無謀だと思うが、はたして.........

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ハワイ・アイアンマン・トライアスロン世界選手権

1984年10月のアイアンマン・トライアスロン世界選手権大会は月刊ランナーズが募集したツアーで参加した。 ドーバー海峡横断の大貫映子さんはスポーツジャーナリストとしてこのツアーにアドバイザ兼レポーターとして同行した。永谷さんの熊本クレージートライアスロンクラブからの3人とは特に親しくなった。ハワイで大島と呼ばれるハワイ島はゴルフやフィッシングそれに今尚溶岩が流れる火山、雪の積もる南国火山マウナケア・マウナロアなどで有名な世界のリゾートである。アイアンマンはトライアスロンの代名詞になっているが、これは前年の大会で、女性優勝者と2番手の激烈なゴールの様子が全米でテレビ中継され、人間の限界に挑戦する新しいスポーツとして、一躍トライアスロンとアイアンマンの名前を世界に知らしめたからである。 私は人と競うのが目的でなく、完走できれば200点位の気安さであった。はたして、その結果は「すばらしすぎる一日」。朝7時のスタートから夜10時過ぎのゴールまで、気分はまったく爽快。しんどいけれど、つらくはないのである。ある種のホルモンの影響との事である。

結果成績は:

水泳 (3.9km) 

 1時間23分13秒2

「日本人」71名中 15位

自転車 (180.2km)

 8時間01分09秒2

マラソン (42.195km)

 5時間29分47秒4

総合

14時間54分09秒8

全参加者1031名

完走者 838名中

747位

「日本人」参加者71名

完走者 56名中

38位

「日本人」参加者71名中 高齢順 8番目 (最高齢完走者 57歳)

  

 

 

一緒に参加した仲間たちと  左から3人目

 

アイアンマンレースから帰国すると、「ランナーズ」社が新しく雑誌「トライアスロン」を発刊するので、完走記を求められた。発売の前日にランナーズ社から「永田さん、あなたが表紙ですよ。」の連絡。発売日にはあちこちの本屋で新刊の雑誌「トライアスロン」創刊号を買い集めてきた。アイアンマンで万歳しながらゴールしている私の姿が表紙を飾っている。また完走記は冒頭4ページも使って写真や練習データまで載せてくれた。いちやく時の人になった気分。ちなみに表紙の自転車はこの列島の第一人者トライアスリートの中山俊行さん(「日本人」第1位)。

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日本トライアスロン協会

ハワイから帰ってまもない日、日本陸上競技連盟幹部の佐々木秀幸さんから一通の手紙。トライアスロン競技の組織化のお誘い。アイアンマンの称号をもったトライアスロン競技のエリート選手達にも呼びかけが来た。当時「トライアスロン」という用語は中学校の陸上三種競技ですでに使われていたので、この新スポーツ団体の正式日本語をどうするかで頭を悩ませ、 なんと「全国複合耐久競技団体連絡協議会」となったが半年もしないうちに「全国トライアスロン協議会」に改称された。

そし一年半の間の活動で「協会」設立準備が整い、いよいよ「日本トライアスロン協会」の発足という時になって、役員のうち副会長・理事長・副理事長という主要なポストには先行している三つのトライアスロンクラブの代表者がそれぞれに就くのが妥当だと思われていたが、役員人事案のことで日本トライアスロンレーシングクラブ (JTRC) 会長の矢後潔省さんが異議を唱え、設立総会直前になって発起人を辞任し、JTRCからは新協会の役員は出さないと宣言するというハプニングがあった。 JTRCのメンバーではあったが個人の立場で参加していた私が初代の理事長に就任することとなった。 会長には月刊ランナーズの編集長の下条由紀子さんの口説きで、自民党の大物である長谷川峻代議士が就任した。 私の母は自分の息子と同じ名前の労働大臣まで務めたこの大物政治家のことをよく知っていたが、私がその当人と同じ組織を運営することになって大変驚いていた。

事務局長は下条由紀子編集長のご主人であり月刊ランナーズ社の橋本治朗社長が務めた。  日本水泳連盟、日本陸上競技連盟、日本アマチュア自転車競技連盟などの支援も得られた。オリンピックにもでた有名な水泳選手も新協会の仲間になった。1986年3月23日、東京は大雪の日、国立競技場会議室で日本トライアスロン協会が設立された。 

私は理事長兼海外担当理事兼大会実行委員長と三つの大役を仰せつかり、2年間は夏の間の土曜日と日曜日はこの列島各地で行われるトライアスロン大会に指導や、協会挨拶、協会長杯の授与などで飛び回っていた。

サイパン政府からも招待されて指導に出かけた。 ほっかほっか亭の「タガマン弁当」の「タガマン」は「強い人」という意味で、私たちが命名した「サイパン・ タガマン・トライアスロン」からとったものである。

協会発足翌年には副会長に就任した。

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トライアスロンクラブのこと

1984年2月のクロスカントリースキー講習会では永谷さんの他にあと二人のトライアスリートが参加していた。その内の一人が川口市に在住のSHさんは当時飛ぶ鳥を落とす勢いのトライアスロンクラブ、JTRCの有力選手であった。彼の紹介で私は JTRCの神奈川支部に入会した。 この会は当時の日本トライアスロン選手界では知らない人がいない矢後潔省さんとい う実力者が会長としてしてトライアスロンの普及に大活躍していた。

1984年のハワイ・アイアンマンへは JTRCもツアーを組んで参加することにしていたが、別のツアーで参加することにしていた私はクラブメンバーであったので、JTRCの練習会には積極的に参加してアイアンマンに備えていた。

ハワイアイアンマン以降もJTRCのメンバーとして首都圏の練習会には参加していた。

この年、JTRC の運営をめぐってメンバー間での抗争があり、JTRCのメンバーのうち首都圏で活動していた代表者的な清水仲治さん、技術指導者だった猪川三一生さん、トップトライアスリートの中山俊行さんや山本光宏さんなどの主要なメンバーが JTRC を脱会して全日本トライアスロンクラブ (ATC) を設立した。 JTRC と ATC とは互いに切磋琢磨しつつ、全国的規模でメンバーを増やしてトライアスロンなどの耐久競技で競いあっていた。

1986年の春に日本トライアスロン協会が発足し私が理事長に就任してまもなく、JTRC会長の矢後潔省さんから来た一通の葉書で私は JTRC を除名されてしまった。理由は書かれてはいなかった。早速 ATC から入会の誘いがあったが、これはお断りした。協会発足直後は協会業務に忙殺されていたので、クラブ活動はむしろ控えたほうが良いだろうと判断した。 協会の北海道担当理事になった人も JTRC を除名された。どうやら矢後さんは新生日本トライアスロン協会に対しては納得していなかったためであろう。

日本のトライアスロンクラブの草分けとしての自負があった JTRC の孤立と優秀な選手を集めて活動を広げる ATC の積極さが際立った。

一方老舗の熊本クレージートライアスロンクラブ(CTC)は会長の永谷さんの人格によるところが大きく、家族的なクラブ運営に徹して、首都圏で繰り広げられているクラブ間の抗争には縁がなかった。

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第1回宮古島大会

沖縄県の宮古島の広域市町村協議会は地域活性化の手段として前年調査し、1984年にも議員団をアイアンマンに派遣して、アイアンマン運営のすばらしさとその宣伝効果をみてトライアスロンイベントを 採用することになった。この秋に協会設立準備をしていた私達は支援の申し入れを受けた。日本航空も大きなスポンサーになった。

私はハワイで知り合い友人になった香港在住のイギリス人女性選手 Ruth Hunt とその友人 Kim Isherwood の2人を1985年の第1回の宮古島大会への招待選手として推薦した。 私も招待選手にしてくれる事になった。ゼッケン1番,2番は「日本人」選手の第一人者の中山俊行さんと2番手の山本光宏さん。3番はこの列島へトライアスロンを紹介した熊本の永谷誠一さん。私はなんと4番。前日 の10人の招待選手の記者会見で「永田さんはなぜ招待されたのですか」との記者の質問に絶句した。第1回宮古島大会はNHKのテレビ衛星中継の試験にも採用され、実況中継全国放送されることになった。 家族にも友人にも見てくれ見てくれと言いふらして、私が映ったのはなんと水泳から自転車へのトランジションで慌てて周りの自転車も倒してしまった場面のみ。

香港の本命 Ruth Hunt は前日からの風邪をこじらせ欠場。もう一人の付き添いの Kim Isherwood の方が「日本人」選手をまったく相手にせず、男子有力選手をも蹴散らして、 堂々の優勝。自分の友人でもあり、また推薦した選手が欠場してどうなるかとの心配を吹き飛ばしてくれ、 嬉しかった。私自身はやっとこさの完走でお茶を濁した。

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国際トライアスロン選手権大会(香港)

ハワイ大会と宮古島大会以来の友人であるRuth Hunt と Kim Isherwood が1985年5月に香港で開催された第2回国際トライアスロン選手権大会の事情を紹介してくれたので、雑誌「トライアスロン」に投稿した記事が掲載された。香港でこの大会を企画したのはイギリス人の Ian Polson さん。 第1回大会の優勝者はRuth、2位は Kim。 どうやらこの二人がオセアニアを除くアジア最強の女性トライアスリートであることは間違いない。 アジアでもすでにトライアスロンがポピュ ラーになり、大きな国際大会が開かれてることでこの記事は反響を呼んだ。私はさっそく翌年1986年4月の第3回国際トライアスロン選手権大会に参加した。私は「元老組」(40歳以上の部)で堂々の3位に入賞。翌日の新聞に写真と記事が載った。

Ruth と Kim は香港駐留のイギリス軍の教師をしているので、軍の立派なクラブでのディナーと、町での飲茶に満足満足。そして香港在住の小学校の同級生とも30年ぶりで再会できた。

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第2回宮古島大会・第3回宮古島大会

1986年4月の第2回宮古島大会は新生「日本トライアスロン協会」の第1号認定大会となった。 私は協会役員(理事長兼大会委員長)として出張しレースには出場せずに、競技全体の監理(監察者)を他の協会の役員とともに行った。開催中に、イベントの一環として、日本トライアスロン協会と宮古島大会実行委員会が共催して、中学校の体育館で「第1回全国トライアスロン・シンポジウム」を開催した。テーマはトライアスロンの競技側面、安全面、医学面、イベントマネジメントなどであった。

前回招待された香港のイギリス人女性の2人は再び参加(今度は自費)し、前回風邪で欠場したRuth Hunt が世界的に有名な女子トライアスリートのカナダのジュリー・モス (1982年のハワイアイアンマントライアスロンでゴール前20メートルで倒れ、這ってゴールしたシーンが全米に放映されてトライアスロンのすごさとモスの名前を一躍有名にした伝説的な選手) を破り優勝した。

1987年の第3回大会では私は宮古テレビの解説者として終日テレビ局の方と共に競技を見守った。

Ruth と Kim は3度連続で参加し、嬉しいことに今度は二人が1,2位を独占した。第1回で二人を招待選手に推薦した私の面目がたった。Ruth は女子で始めて9時間の壁を破った。 夜、3人で密かに (といってもバレバレだが) 居酒屋で祝杯をあげた。 

Ruth Hunt は 2012年現在ホンコントライアスロン連盟の強化コーチでたびたび選手をオリンピックに連れて行っている。

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長嶋連盟

1985年頃からアメリカではアイアンマンとは別にその4分の1の距離で競うショートトライアスロ ンがポピュラーになっており、「国際トライアスロン連盟(International Triathlon Federation)」と名乗る業者がシリーズで競技会を行っていた。この列島でもある組織がそのライセンスを受けて、この列島でもシ ョートトライアスロンのシリーズを始めたいと私達の協会に相談にきた。そこで副理事長の永谷さんが九州のあちこちの自治体へ働きかけ、天草で実現する運びとなった。

私も出場した。この組織(会社)は当時浪人中であった長嶋茂雄さんを会長に担いでいたので、このシリーズ第1回の天草大会に長嶋さんがやって来た。大勢のスポーツ紙の記者が来て大変な騒ぎでした。関心はトライアスロンではなくて長嶋さんが巨人へ戻るのかどうかであった。 天草大会は大成功に終わり、このショートトライアスロンは「日本トライアスロンシリーズ」(JTS)と名づけられた。

この頃からこの組織はアメリカの本部の指示で「国際トライアスロン連盟・日本支部」と名乗るようになり、最初に相談に乗ってあげた私達の「協会」と敵対するような活動をはじめた。協会を作るまでは一緒にやってきた一部の有力選手とコーチがこの「連盟・日本支部」業者の組織へ流れた。スポー ツビジネスでは良くある話である。 

彼らはこの業者の支援を得て、「稼げるプロトライアスリート」を夢見ていたようだがビジネス社会は甘いものではなかった。「トライアスロン」がメジャースポーツになれば、と一部のスポンサーは期待して飛びつき、第一人者の中山俊行さんは一時テレビのコマーシャルで人気者になった。 その後この組織はさらに「日本トライアスロン連盟」と名乗り始めたが、私達は「長嶋連盟」と呼んでいた。

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国際トライアスロン連盟

それは、協会へ来た一通の手紙から始まった。ヨーロッパからの「国際トライアスロン連盟」設立準備会の案内である。早速私達の協会が「日本国」を代表して準備会に加わり、1987年11月にオランダのアムステルダムで開かれた国際トライアスロン連盟設立総会に私(協会副会長)と協会事務局長の橋本治朗さん(月刊ランナーズ社社長)が出席した。 このヨーロッパ主導で始まったこの国際連盟の設立はアメリカの参加が不可欠であった。

アメリカはスポーツビジネスの国でトライアスロン界もハワイアイアンマンだけでなく多くの団体が勝手に「International」、「National」、「Federation」、「Championship」を名乗り、競技会も活気があった。「日本連盟」の本家もその内の一つである。アムステルダムでの設立総会には「アイアンマンコーポレーション」と「日本連盟」の本家である「国際連盟」を含め3つの主力団体の会長が顔を揃えて参加した。 会議では規約などが了承された後、最後の参加投票でやはりアメリカが保留し、本国の各組織への承認を待つとのことで、会議は一日延期された。 しかし、翌日早くにアメリカも参加でまとまり、めでたく「国際トライアスロン連盟」が設立された。アメリカの「国際連盟」会社が 「International Triathlon Federation」を商標登録していたので、この本当の「国際連盟」はやむなく、「Triathlon Federation International : TFI」となった。

各国組織(National governing bodies)を統括する「国際連盟」を設立する目的の一つはオリンピック競技種目へのトライアスロンの採用である。これで大きな道が開けた。

私は新生「国際トライアスロン連盟」の副会長(Vice President)に選ばれ兼務でアジア(東は日本から西はアラビアを含みトルコまで)代表の理事に就任した。この日の夕方はアムステルダム市長招待の船上晩餐会で盛り上がった。

帰国のフライトで機上の朝日新聞のスポーツ欄にこの国際連盟設立のニュースが掲載されているのを見て、この列島での早い反応をよろこび、3日間の国際会議の疲れも消えた。  「日本連盟」会長の長嶋さんはこのことをまったく知らされておらず、後日聞いたところによると、相当に怒ったそうである。(偶然だが、この記事の同じ面の横に当日のドラフト会議を待っている長嶋一茂さんの写真と記事が載っている。)

この2週間後に朝日新聞からの取材を受け、スポーツ欄の「この人に聞く」で私の写真とともに、トライアスロンがオリンピック種目として採用される道が開けたことを伝える私の談話が大きく掲載された。私がそのようなことをしていることを誰にも知らせていないので、大阪にいる親戚も学校の同級生もまた会社の同僚も、新聞で知りとても驚いたと伝えて来た。 これで私の勤め先の会社の知るところとなり、ついに顛末を上司を通じて社長に報告するはめになったが、社長は「いいことだ」と言ってくれた。

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トライアスロン活動の終結

1987年に勤め先の会社がアメリカ最初の原子力発電所大型放射性廃棄物施設の建設工事を受注し、 その業務の現地責任者として1988年の春から家族ともどもアメリカへ移住することになった。国際トライアスロン連盟の業務はアメリカでもできないことはなかったが、私にとっては、このアメリカでの仕事は少しの失敗もゆるされない大切なもの。ちょうどこのときに世界のトライアスロン競技組織をまとめ上げたことを私の人生のひとつのマイルストーンとして、トライアスロン活動から完全に手を引くこととした。 短いけれどトライアスロン活動を通じて肉体的にも精神的にも最高の充足を得られた。

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その後

2000年シドニーオリンピックにトライアスロンが正式種目として採用された。

トライアスロンから足を洗って早や21年(2008.7現在)。この列島にトライアスロンの夜明けを作った昔の仲間達はどうしているのだろうか。

以下 2007.1.15追記 

永谷誠一さんはこの列島のトライアスロン界では神様のように尊敬を集める人である。長年経営された熊本市内のアウトドアショップ「山想」は店をたたんで現業から引退され、阿蘇外輪山南面の土地に転居されたことを2004年に知った。昨年はこの国のトライアスロン発祥の皆生トライアスロン20周年記念の大きな集まりにも中心的な役割りを果たされたと風の便りで聞き及んだ。その気安く温かいお人柄からトライアスロンだけではない多くの人々との交流を続けられていると聞いていた。私の人生を大きく変えた人である。

2006年12月25日 BMWオートバイ旅行の途中、熊本県清和町井無田の永谷さん宅を訪問して永谷さんと奥様に再会し、旧交を温めた。トライアスロンの始まりの頃のことと分水嶺の話で盛り上がった。永谷さんは熊本県山岳連盟の副会長でもある。

以下 2008.7.18追記

2008年6月27日に「トライアスロン物語」を執筆している桜井晋さんの取材を受け、主に日本トライアスロン協会の設立(1986年3月)から国際トライアスロン連盟の設立(1987年11月)までの国内と世界のトライアスロン界の組織化のいきさつをお話しした。

私はトライアスロンから完全に離れた1988年以後トライアスロンへの関心は全くなくなり、この列島と世界のトライアスロン界の動向を知ることはなかった。

桜井さんとの話しの中で、その後日本トライアスロン協会の運営のまずさによる組織の弱体化から10年間ほど国内組織の混乱があり、1990年代半ばになって、スキーの猪谷千春さんや重量挙げの三宅義行さん、それに野球の長島茂雄さんなどの有名人をトップに据えた新しい組織ができたことを知った。 この新しい組織は、他の多くのスポーツがそうであるように、トライアスロンをビジネスの道具として捉える人たちが中心になって運営され、また短距離の競技中心志向のためかつての「鉄人レースイメージ」は薄れて夢のないスポーツに変貌してしまったとのことであった。トライアスロンの発祥である「アイアンマン」の名前も利権で汚れきってしまっていると嘆いていたのが印象的である。 

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