中央分水嶺と峠
2005年12月
2006年10月18日 追記


これまでの旅行で越えた中央分水嶺上の峠や峰の写真を集めました。こちらへどうぞ


2006年10月18日追記 

好天気の10月12日と13日、オートバイで福島県の中央分水嶺の9つの峠を越える旅をした。

中央分水嶺は福島県北部では、荒々しい火山の吾妻連山と、それを南に下ると、会津と安積を隔てている比較的高度の低い嶺々である。 白河と会津を結ぶ県道37号線(白河羽鳥線)が分水嶺を越える真名子峠から南はより厳しい山岳になり、甲子峠は未だに自動車では越えることができない。

盆地の会津は周辺との交通には必ず「峠」が介在する。その地勢が会津の文化的、政治的特徴を形成したといえる。

会津は明治維新の戊辰戦争では母成峠などでの戦役でついにその孤高の独立性が失われ、明治以降の度重なる交通路の開発を経て今に至ったことを思えば、会津は「パスハンター」を惹きつけてやまない。


7月13日再改訂 青字部分

「塩尻峠と善知鳥峠の間の塩嶺高原別荘地のあたりは大規模開発で中央分水嶺のある丘陵地が削り取られてしまった」、と書いたが、2万5千分の1の地図で詳細に調べたところ、別荘地は分水嶺の南側斜面に造られており、もともとの分水嶺は手がかけられておらず、もとのままであることを確認した。

また、連続した航空写真を使って、この部分の高低が立体的に見えるように3Dステレオ写真を作成した。これはステレオビューアを直接パソコンの画面に当ててこの空から見下ろしたこの土地が立体的に見える。航空写真の撮影間隔と実際の両眼の幅が極端に異なるから高低差が誇張されて見え、里山がグランドキャニオンのように見えるのはご愛嬌。


2006年7月改訂の辞

2006年の6月から7月にかけて2度にわたって、オートバイで長野県の分水嶺とそれを越える峠を辿る旅にでた。そして帰って調べてみると、昨年の12月に書いた文章に多くの誤解と無知による間違いが散見されたので、それらを補正した。ひとつは、分水界が動くことの原因として火山活動と大規模工事と書きましたが、他に自然活動で「河川争奪」という現象で分水界が移動することが結構あるということを認識した。また道路地図では分水嶺が分かりづらかった塩尻峠と善知鳥峠の間白樺湖・霧ヶ峰野反湖のあたりは、実際に行ってみて分水嶺(界)とそれを越える峠の位置を確認し、また航空写真や2万5千分の1の地図でも確認した。


2005年6月のオートバイによるヨーロッパアルプスの峠越えの旅行では、ヨーロッパ大分水嶺(分水界とも)にこだわった。降った雨が北海に流れるのか、地中海に流れるのか、黒海に流れるのかを決める嶺に惹かれ、その嶺を越える峠の数々に挑戦した。

さて、日本列島における日本海と太平洋水域を分ける嶺や流域境界を「中央分水嶺(分水界)」という。山岳地帯ではこれらの分水嶺(界)(divide, watershed)のうち一番低い地点(もっと正確に言うと、歩いている尾根・山稜などの標高の変化がマイナスからプラスに転ずる地点)の多くは、街道や林道が越える「峠」(すなわち、道の方から見ると標高の変化がプラスからマイナスに転ずる地点)となる。 「最も低くて最も高いのなあに?」というクイズの解答となる「峠」というポイントは数学・物理学上で「特異点」と呼ばれ珍重される。 これらの中央分水界を越える峠の内、車かオートバイで通れる峠の数は、果たしていくつあるだろうか、と考えている内に「中央分水嶺(界)の全峠および横断道路の走破」を思いついた。最初は自動車かBMWオートバイで通れる峠や道に限り、将来はオフロードのバイクや自転車で林道の峠を加え、次にハイキングで登れる峠、そして、さらに峠と峠を結ぶ分水嶺の一部縦走へと広げ、そして、そして、不可能ではあるが、中央分水嶺(界)の全線縦走へと夢だけは膨らむ。

 

特異点:曲線上あるいは曲面上で、接線あるいは接平面が存在しなかったり、二つ以上存在したりするような点 (広辞苑)

 

なお、日本山岳会が創立100周年記念事業として「中央分水嶺踏査」事業を進めて、つい先日の2006年6月17日に、5000キロにわたる全ルートの調査を完了したことを知った。最後の調査ルートして選ばれたのは私がその1ヶ月前に美しい分水嶺の姿に感激して立った鷲ヶ峰から八島ヶ原湿原へ下るルートであった。この快挙を報道する新聞記事にはこの私の立ったのと同じ位置写真と記事が掲載され、日本山岳会のホームページに掲載されている。

 

この大分水嶺(界)を地図でたどると、一つの島ごとに一本の連続した線となる。本州では、北の陸奥湾に注ぐ流域部分との分水界は大分水嶺の要件を満たしていないので除いてみると、この大分水嶺の線は、青森県の八甲田山の南にある駒ヶ峰(1416m)頂上からスタートし、東北地方、関東地方、群馬・長野・岐阜の背骨部分を通り、途中の岐阜・福井・滋賀の3県の県境が交わる地点からは日本海と瀬戸内海とを分ける嶺となるが、最後は山口県の下関駅まで、とにかく一本の連続線となる。 

 

2本ないのか、あるいは連続しないことはあるのか。 一時、そうなってしまったのが十和田湖である。大分水嶺上のあった火山が噴火して噴火口はやがて陥没して、大きな穴があき、その穴の周りが輪(外輪山)になって大分水嶺を断絶させた輪の内側はどちらの流域にも含まれなくなり、大分水嶺は「連続する一本の線」ではなくなってしまった。 噴火が収まって冷えた陥没噴火口には降った雨がたまり、水の出所がないから噴火口はプールとなる。そのプールはだんだんと大きくなりやがて池から湖になる。湖はさらに水が満ち、やがてその輪の線の最も低いところから溢れ出してしまった。 その溢れ出した水が作った川の流れがかの奥入瀬渓流である。噴火口には水はそれ以上はたまらなくなった。かくして十和田湖ができ、輪の中はめでたく太平洋側水域に属することになり、再び大分水嶺は一本の連続線に戻った。このようにして新たに大分水嶺になったのが、十和田湖北岸の御鼻部山展望台から始まり、西へ外輪山をぐるっと反時計まわりで南の十和田湖の絶景を望む初荷峠を過ぎて、その東の十和利山までの部分である。一方、残念ながら水が溢れて大分水嶺になれなかったのは、この御鼻部山展望台から東へ時計回りに外輪山を進み、水の溢れた地点である「子の口」地点から十和田山頂上、戸来岳頂上、そして十和利山頂上で、今の大分水嶺に繋がる部分である。 この部分には残念賞として、「旧十和田湖分水嶺」の称号を授ける。 

 

分水嶺線(界)はどのようにして変わっていくのだろうか。地球上の表面は空気と水の組み合わせが太陽エネルギーを得て、雨や雪が降り、風が吹き、水が凍り、水が流れ、また洪水が起こるような大掛かりな仕掛けがあって、地球の内部のエネルギーは地震や噴火などで放出され、さらに宇宙の力のバランスから落下する隕石など、長年にわたる自然現象で刻々と形を変えて、そして今はこの今の形があるので、これからも当然地形の変化しつづけ、どんどん変わっていく。だから「たかが分水嶺」も刻々(長い時間の流れでの「刻々」)と変化する。 といっても人間が生きている間という短い時間のスパン、さらに私が生きている間というほんの一瞬の間にはあるかどうか。その中で最もありうるのは火山の噴火であろう。 1943年の有珠山の噴火でできた昭和新山や先の九州雲仙普賢岳の噴火などでは山の形が大きく(人間から見て「大きく」であるが、地球上の自然現象からみると「ほんのわずか」)変わったから、これらの噴火があと30年(40年かも知れない)以内に大分水嶺上の山や分水嶺に近い場所で起これば線が変わるのを見届けることができる。その可能性としては分水嶺上にある浅間山や分水嶺に極めて近い草津白根山の噴火である。十和田湖と同様に新しい噴火口ができたり、溶岩が流れ出たり、噴火口が陥没して頂上の地形の変化が生じると大分水嶺線は引き直しとなる。

また分水界は二つの河川の鬩ぎ合いの結果であり、両方の河川の浸食の強さの違いにより、強い方の河川が分水界を越えて一方の河川流域まで浸食すると、水の流れが変わり、それによって分水界も変化する。これを「河川争奪」と呼ぶ。過去に大分水嶺上での「河川争奪」の例として、兵庫県氷上町石生のあたりは加古川と由良川の争奪が有名である。なおここは本州で最も標高の低い中央分水界である。(下記参照) これは自然現象によるが、人工的に大分水嶺が変わったり変わる可能性は、長野県の高原一帯である。大分水嶺をなす尾根近くの道路整備、大規模スキー場の建設、ドライブインやホテルや駐車場などの建設などの工事が為されると、尾根の線すなわち大分水嶺の線が変わってしまう。塩尻峠と善知鳥峠の間の塩嶺高原は航空写真で見ると、分水嶺のある丘陵地が大規模な別荘地とゴルフ場の造成で大きく削り取られ、分水界がこの造成地の縁に移動してしまったかと思ったが、2万5千分の1の地図で詳細に調査したところ別荘地は分水嶺の南側の斜面に造成されておりもともとの分水嶺には手が付けられていない事を確認した。すでに和田峠にはビーナスラインを通し、志賀草津道路の山田峠や渋峠あたりも大掛かりな工事が行われたから、少しではあるが大分水嶺の線も変わった。 もうひとつ、群馬県北部、尾瀬の鳩待峠と三平峠の間は大分水嶺をなす緩やかな分水地帯である。この地形を作り上げた燧ケ岳は私の生きている間には噴火しないだろうから自然現象での変化はないと思うが、アウトドアブームで尾瀬に繰り出す人の出入りで植物・動物の生態系に変化が生じて、このアヤメ平にある湿原が変化したり消滅すると、傾斜のほとんどない地帯がゆえに水の流れに影響する。

 

暇に飽かして地図でこの一本線の「本州大分水嶺」を追いかけてみると面白いことを見つけられる。

 

この大分水嶺の標高の最も低いところは、終端の下関市を除くと、兵庫県のJR福知山線沿いに氷上町の石生(いそう)というところである。標高は95m。この氷上町は「分水嶺サミット」を呼びかけて分水嶺を観光資源としたことで有名である。この町はずばり「水分れ」をキーワードとして「水別れ橋」、「水分れ公園」、「水分かれ資料館」など取り揃えて「分水嶺」オタクを待っている。この町中を流れる高谷川の水は「水分れ公園」の水中分水点で二つに分かれ、北へ竹田川、土師川、由良川となって日本海へ、そしてもう一つは南へ加古川となって瀬戸内海に注ぐ。このあたりは低地帯であるために街道は氷上回廊と呼ばれて日本海と瀬戸内海の往来に使われていた。この二つの川を運河で結ぶ計画もあったそうだ。海水の水位が95メートル以上上昇すると本州はここで分かれて瀬戸内海と日本海がつながり、この町は「石生海峡」となり、「第ニ関門海峡」として海運上のあらたな水路となる。 その時には日本の大都会の多くが水没していることはいうまでもない。次に低い分水嶺(分水界)は広島県JR芸備線の向井原あたり(210m)である。後に書く滋賀県若狭街道の水坂峠(230m)も低い分水嶺の代表で、ここも運河を通す計画があった。 大分水嶺の最も高いところは、長野県と岐阜県の県境に聳える乗鞍岳頂上(3026m)、2番目は八ヶ岳頂上(2899m)となる。

 

分水嶺が最も海に近づく地点は、大地をぎゅっと手でしごいて寄せた感があり、片方は海まで近くて急で、他方が遠くて緩やかな特異な地点であるが、それは、滋賀県と福井県の県境の北陸トンネル上の河内という名の土地である。この近くを北国街道(国道365号線)が通り、栃の木峠でこの分水嶺の国境を越える。この分水嶺から日本海(敦賀湾)までの直線距離はわずか4km余りである。

 

西の方の峰がなだらかなところでは分水嶺(分水地点)は見つけにくい。もっともはっきりしないのは、京都府のJR山陰本線の胡麻駅付近の日吉町新町あたりであるが20万分の1の地図では判然としないほとんど平らな土地である。島根県西南部の中央高速道路深谷パーキングエリア付近から山口方面に約2km進んだ地点の六日市町の星坂付近の大分水嶺もまた特異な地形の「分水地点」である。ここには日本海へ注ぐ吉賀川・高津川水系の水源となるハナショウブが咲く「水源公園」があり、すぐそばには岩国の町で瀬戸内海に注ぐ錦川の支流が深谷峡を流れる。この大分水嶺を中央自動車道がトンネルなしで横断しているのに腹が立つのはなぜだろう。このような大分水嶺上の特異な「分水地点」は詳細な地形図で確認して、現地に行ってこの目で確認したい。

 

中央アルプスの木曽駒ケ岳頂上は大分水嶺ではないが、分水嶺はその北側で大きく屈折する。この屈折により中山道で木曽から大分水嶺である鳥居峠を越え、そこから東へ伊那に抜けるにはもう一度、権兵衛峠で大分水嶺をつづけて二度越えることになる。これはフォッサマグナと呼ばれる大断層のゆえである。その北の塩尻峠は千曲川・信濃川水系と天竜川水系を分ける大分水嶺である。この権兵衛峠の下に大規模なトンネルが2006年に開通して、伊那と木曽を自動車で行き来する時間が大幅に短縮した。

 

分水嶺(界)はだいたい県境や市町村の境界となっている。これは昔から人々の生活が共同体として水の確保を原点として為されてきたからである。しかしこの国境と分水界とが微妙に違っている箇所があり、その訳をしりたくなる。下に書く滋賀県と福井県の熊川宿あたりの他、長野県と群馬県の境の野反湖あたり、群馬県と新潟県の尾瀬ヶ原のあたり、碓氷峠の南、荒船山の近く狭岩峡のあたり(ここは河川争奪で分水界が移動したと思われる)などである。

 

滋賀県は面白い。この県内に降った雨は一旦琵琶湖に注ぐ。福井県との県境は日本海側との大分水嶺となり、岐阜県・三重県との県境は伊勢湾側との中分水嶺である。琵琶湖の水は瀬田川、淀川となって大阪湾に注ぐので滋賀県の全域が瀬戸内海側水域である。しかし例外がある。京ら若狭小浜へ抜ける「若狭路」、一名「鯖街道」は滋賀県内の檜峠(310m)で大分水嶺を越えて上自在坊で一旦日本海側水域に入り、また数百メートルも進むと「途中谷」で琵琶湖へ注ぐ石田川水系へ戻り、保坂の国道の三叉路の手前を左へ折れて旧道を北へ1kmほど進むと大分水嶺の水坂峠(230m)で再び日本海水域に入る。ここはまだ滋賀県である。さらに若狭街道を西へ川沿いに2kmほど進むと福井県境となり、県境から1kmで熊川宿跡である。この県境が分水嶺から外れた理由を考察するに、どうやらこの熊川宿を置いたことが関係すると思われる。また、果たして中世の近江と若狭の国境と現在の県境が同じであるのかどうかも気になる。一つの水系に属する地域が二つの県にまたがっていると水資源の管理、防災計画、さらに現在では廃棄物の管理などに支障がでないのだろうか。この滋賀県に属する日本海側水系部分の流域面積は約25平方キロメートルである。

 

また大分水嶺ではないが、琵琶湖水系の安曇川の水源と、京都の町にそれぞれ違う方向から入る大堰川・保津川と高野川・加茂川の二つの異なる水系の水源を隔てる小分水嶺が交わる地点は京都府内である(もっともこれらの水系はすべて下流の山崎水狭隘で合流し淀川となって一緒に混ざり合って大阪湾に注ぐから「分水」の興奮は水をさされる)が、ここを通る鞍馬・大原から花脊へ抜ける街道、国道477号線は、東から前ヶ畑峠(630m)、桃井峠(730m)、花脊峠(769m)と連続するアップダウンの山道で、さぞ風光明媚なところであろう。昔は風流なところだったろうが、今ははたして、どんな峠になっているだろう。行って見よう。

 

分水嶺の楽しみを殺ぐのが人工の放水路や運河である。福島県の猪苗代湖は日本海へ注ぐ阿賀野川水系であるが、1882年(明治15年)に安積疎水が完成して福島県の郡山のある安積地方への利水のために配水している。またこの猪苗代湖の南約20kmのところにある、人造湖である羽鳥湖は日本海へ注ぐ鶴沼川・大川・阿賀野川水系であるが、この湖の湖岸から東約1kmのところに大分水嶺があり、その下を越えて掘られた放水路トンネルで隈戸川に繋げられて湖の水はやはり安積地方へ配水して阿武隈川に流れて太平洋に注ぐ。 この隈戸川は下流の東北新幹線と交差するあたりで、再び自然の流れから分かれる地下放水路へと導かれている。この放水路はなんと別の川の底の下を横切っている。日本海側へ流れるはずの羽鳥湖の水を太平洋側でも利用するための灌漑目的であろう。分水嶺の西側に降った雨が羽鳥湖に注ぎ、自分は日本海へ行けるものだと思っていたら、豈図らんや、暗いトンネルを通って、いつのまにか太平洋に出ていた、ということである。このあたりが昔から水で苦労していたことがわかる。放水路の例の古くは、江戸時代に利根川の水を江戸に流す江戸川。そして明治時代の琵琶湖疎水、これは舟の往来も可能だったので、地下運河ともよべる画期的なもの。私の住まいの近くでは明治時代に横浜の吉田新田から岡村と根岸の丘を削って切通した中村運河、また1960年代になってもよく氾濫した大岡川の水を本牧湾に放流する磯子放水路トンネルなど、極小分水嶺はその孤高の立場をどんどん失っている。

 

横浜市保土ケ谷区と南区の区境にある私の家は、横浜駅近くでそごう百貨店横から横浜港に注ぐ今井川・帷子川(たまちゃんで有名になった「かたびらがわ」)水系(保土ケ谷区側)と、みなとみらい地区で日本丸・クイーンズスクウェア・国立会議場と観覧車のある遊園地との間を通って横浜港に注ぐ大岡川水系(南区側)の極小分水嶺の上に建っている。 近くの旧東海道、権太坂の頂上である境木立場(さかいぎたてば)、そしてすぐ近くの国道1号線の新年の大学駅伝での「権太坂中継所」(今年はじめはサッポロビールの倉庫であったが、今は神奈川生協の配送センター)は武蔵の国と相模の国の国境であり、東京湾に注ぐ今井川・帷子川水系と相模湾に注ぐ柏尾川水系を隔てる中分水嶺である。