きのうの日記「豊中時代
その1」で我が家の向かいの割烹旅館が戦後連合国占領時に伊丹飛行場に駐留していたアメリカ軍の「接待所」だったことを書いた。 私が小学3年生頃には近くの伊丹飛行場からグラマン戦闘機
(F9Fパンサー)
や最新鋭のジェット戦闘機ロッキード F86 (セイバー)
が頻繁に飛び立っていたことを鮮明に覚えている。 克明小学校は滑走路の延長線上に近く、授業中の教室や校庭からも手に取るように見えた。 当時、私は戦争のことを知らなかったのでこれらの戦闘機の出撃に対して恐怖感は持たなかった。 そればかりか小学高学年の時に入っていたボーイスカウト活動で伊丹飛行場のアメリカ軍のキャンプで一晩過ごしたときに出された「豪華な食事」(当時の受け止め方)
に驚きアメリカ人はこんなおいしいものを食べているのかと羨んだ。 その時のメニューはフライドチキンレッグとフライドポテトとピーナッツバターを乗せたセロリ。
もうひとつの思い出は「進駐軍専用電車」。 「占領軍」でも「駐留軍」でもなく「シンチューグン」だった。 克明小学校は阪急宝塚線の豊中駅と岡町駅の中間で線路に沿って校庭があったのでよく見えた。 1両編成で車両に白い線が引かれていた。 「進駐軍専用車」について調べると「鉄道ピクトリアル」という雑誌に掲載された「私鉄高速電車発達史 中川浩一」が見つかった。
それによるとこの白い帯の幅は8インチと決められていたとのこと。 この電車の画像を検索すると、白い帯には「ALLIED
FORCES」と書かれていたそうだ。 子供だったから「連合国」ということは知らないから彼らは「アメリカ軍」「アメリカ人」そのものだがそれが実体だった。 乗りたいとは思わなかったのは、そんなこと現実にはあり得ないことだとの思い込みがあったからだろう。

同志社大学鉄道同好会OB会(DRFCクローバー会)ホームページより借用
上の絵は阪急三宮駅。 阪急電車はマルーン色の車体にクッキリした白い数字で車体番号が前面と側面に書かれている。 私が克明小学校に通っていた頃には100番台から1000番台で、この絵の600番台の車両もよく見たが
500番台までの車両より長くなり、幅も大きく、屋根が丸いのが特徴だったことをよく覚えている。 ボギー台車の弓型の側梁が強く印象に残っている。 1000番台の車両はさらに大型化されデザインも一新されて近代化されたことを子供ながらに実感した。
近くの英連邦墓地に行くとイギリス、オーストラリア、ニュージーランドだけでなくインド、パキスタンなどアジアの国の戦没者のエリアもあり、先の大戦がアメリカとだけ戦ったのではないのだということを孫たちに教えるよい機会になっている。

Wikipedia
World War II casualties より
このグラフを見ると中国の一般人の戦死者の数が突出して多いことに驚かされる。 その戦争惨禍の後にすぐ隣の国でまたまた大きな戦争が起こった。
先ほど Wikipedia
の「朝鮮戦争」の項目をしっかり読んだ。
恐ろしいことだ。 |