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東京大空襲

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午後3時10分 |

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先日7歳年上の姉と会って昔話になった。
姉二人が学童疎開中の1945年4月にアメリカ軍の東京空襲で目黒区原町にあった自宅が焼失したが、戦災前の町の様子を事細かに覚えていて「西小山の駅を降りて右へ三つ目の角を左に曲がると……」などと語り出した。 姉たちは終戦後に学童疎開から家族が疎開していた鎌倉の浄明寺
(寺の名前は浄妙寺)
に帰宅したが、浄明寺のことは私は2歳になる前だったので記憶にない。

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1645年4月15日夜から16日未明の空襲による焼失範囲 |

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焼失前の原町の家は私は全く知らないし、場所も分からなかったが戸籍に記載の地番から現在の住所を割り出して特定できた。 上の地図でグレーの「疎開区域」では、爆弾投下によって延焼を防ぐために道路に沿った家屋を強制的撤去した。 目蒲線洗足駅と大岡山駅間や大岡山駅北側の北千束町の南北道路の疎開は効果があったように見受けられる。
下のくったくない顔の姉の写真の撮影場所が自宅跡だと推測できる。

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1947年1月 焼け跡に立つ姉 後の建物は向原小学校か |

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私の最も古い記憶は鎌倉疎開から目黒に戻って焼けた原町の家からほど近い向原町の借家
(35°37'11.4"N 139°41'39.2"E)
に住んでいた時のこと二つ三つである。 この借家には
1948年9月 (私5歳)
に大阪府豊中市へ転居するまで住んでいた。 この家の路地の途中に3段の石段があったことは姉も私もよく覚えている。 その場所には今も石段が残っていることを
Google Street で確認した。

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戦後住んでいた向原町の家の路地 |

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私たちの家族が疎開していたのは鎌倉の浄明寺にある映画監督の熊谷久虎の屋敷であるが、後に熊谷の義妹の原節子が女優引退後に秘かに住んでいたことで知られている。 1歳になった私がこの屋敷の広い廊下を走り回って庭に飛び出してしまうので「弾み玉」と呼ばれていたと聞いている。

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家族が疎開していた鎌倉浄明寺の家 Google
Map |

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