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テモテへの手紙
岩波の「新約聖書」は「一般の新約聖書」とは異なり「マルコによる福音書」が最初に掲載されている。 他の福音書が「マルコ福音書」の記述をベースにしていることから「マルコ」が一番最初に書かれたとしたからである。 岩波の「新約聖書」は注釈が細かく、各節にタイトルが付けられ同じ話が他の福音書のどの章節に該当しているかもあるので、読みながら注釈を確認したり他の福音書の記述と照合できる。
「福音書」を「ふくいんしょ」と読むのが当たりまえというのにもひっかかる。 またこの書を「聖書」というのも気になる。 英語などのラテン語から派生した言語では
Bible(英・仏), Bibel (独), Biblia(スペイン)
などすなわち「文書」である。 「新約」「旧約」も
Testament (契約)
であり「聖」という文字は使われない。
「福音」「聖」いずれも中国語訳が先でそれをそのまま日本語訳として使用しているのだと思われる。
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追記
現代中国語訳の聖書
−モリソン訳から改訂和合本聖書に至る翻訳史−
(沼野治郎著 せせらぎ出版)
「はじめに」によると:
中国語の聖書翻訳は歴史が古く、日本語訳聖書に『旧約聖書』『新約聖書』の各書の名前、たとえば、創世記、申命記、士師記、使徒行伝などをはじめ聖書に登場する多くの固有名詞(耶蘇基督、馬太、路加など)や他の数多くの用語(神、福音、安息日、聖霊、伝道、復活など)において、広範な影響を与えている。それは1819年(江戸時代
文政2年) のモリソンの漢訳聖書に溯る……
「福音書」にはイエスの行いが物語風に書かれているが、宗教的な観点からその「意義」はよく読み取れないのは私自身が「宗教的なもの」を全く持ち合わせていないからである。 それを何度も読んでいるから飽きる。 次に掲載されている「使徒行伝」(教団によって名前は「使徒のはたらき」とか「使徒言行録」などそれぞれ)
は「福音記者ルカ」が福音書の続編として書いた、エルサレムにおける教会の成立から使徒ペテロとパウロの活躍をまとめたもので、何度か読んだが、これも物語風の旅行記のようなものなのでやはりこれからは宗教的な「意義」を汲み取ることはなかった。
そこで視点を変えて、「初期キリスト教」の観点からその「意義」を説いているとされる「使徒パウロの名による手紙」の中から、極めて短い手紙「テモテへの第一の手紙」をちょっと拾って読んでみる。 パウロの宣教旅行にも同行した弟子のテモテに対して、教会における指導者としての立場に関してのアドバイスという形をとっている。
ふと、こんな記述
(2:11-12) が目に留まった。
11女は静かに[男性聖職者に]ことごとく従属しつつ学ぶべきである。 12女が教えることを私は許さないし、また男に指図することも[許さない]。 むしろ静かにしているべきだ。 なぜならアダムが最初に造られ、次にエバが[造られたからだ]。
「組織委員会の騒動」を思い出した。 この記述に対してキリスト教会の中ではいろいろと都合のよい解釈をしているように見受けられたが、それでも「前会長」と同じ古典的な考えを堂々と披露する教会指導者も少なからずいるようだ。 1960年代の「ウーマンリブ運動」を苦々しく感じていた人たちも多くいたのは確かである。 今は、「憲章」という印籠にびくびくしてダンマリを決め込みあるいは表面を繕い欺く輩を見る。
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