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昔の時代の、良かったことをよく思い出している。 これも老齢による脳の退化がずいぶん進んだせいだ。
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1962(昭和37)年に進学した大阪大学は出来たばっかりの工学部原子力工学科の第1期生だった。 1965年に創刊された右側の「原子力工学入門」はアメリカ人の著作の翻訳で当時唯一の教科書だった。 まだ日本には発電用の原子炉もなかった。 最近の原子原子核工学の入門書としては
1975年に初版が出たあと2003年に改訂された「原子核工学入門」~宇宙エネルギーの開放と制御~
John
R. Lamarsh
著、澤田哲生訳、が原子核工学を学ぶ大学生向きとして一般的である。 この2冊は手元に置いているが、もうさっぱり理解できない。

大学後半の専門課程では原子力化学工学講座で核燃料再処理プロセスを学び、大学卒業を前にして講座教授の品川睦明先生が「日本揮発油」と話を付けてくれて就職した。 知らない会社だった。
入社してから知ったのはこの会社は、これまで歩んできた石油化学プラント建設の世界から一歩踏み出して新しいエネルギー源である原子力のプラントへの展開に踏み出したことだった。
先立つ1965年に国の政策で、使用済み核燃料再処理施設を建設することになり原子燃料公社
(Atomic Fuel Corporation: 原燃公社 AFC)
、後の動力炉核燃料開発事業団 (動燃事業団 Power
Reactor and Nuclear Fuel Development Corporation: PNC)
を設立した。 その設計と建設にあたり、フランスですでに再処理工場建設の経験があったサンゴバン社
(Saint-Gobain) に基本設計を行わせていた。
私が入社した時は、まさに日本揮発油がサンゴバン社とグループを組み、東海村に建設することになっていた再処理施設建設の一括受注を目指していた時だった。
3か月の新入社員教育を終えて配属されたのが「原燃チーム」だった。 40歳前後の先輩、一人はプロジェクトマネジメントの専門家、一人は化学プロセスエンジニア、それに新入社員二人という4人の小さいチームだった。
チームに配属されて最初に私に示されたのがサンゴバン社が作成した「再処理施設基本設計書」("Norm"
と呼んでいた)。 5センチ厚さの英語で書かれた真っ赤なファイルが10冊ほど。 これを毎日毎日読み続けた。 日揮でこれを全部読み通したのは私一人だけだと思う。
途中、日本原子力研究所
(原研)
高崎研究所での実験装置の設置や原燃公社の人形峠でのウラン抽出施設の建設などの小さい仕事にも従事した。
入社後3年目の1970年6月に突然、東京赤坂の三会堂ビルに本社があった
動燃事業団 (現在は核燃料サイクル開発機構)
の高速炉開発本部への出向を命ぜられた。 当時の動燃は職員だけでは技術者が足りず、原子力産業界の民間の会社から大勢出向させていた。 高速炉開発本部は「夢の原子炉」とも呼ばれていた高速増殖炉の開発と建設を担う部門である。 私が配属されたのは「燃料・材料
(燃材) グループ」。
グループリーダーは植松邦彦さん
(動燃副理事長・OECD/NEA 事務局長、2009年逝去)
、当時40歳前。 京大出身でマサチューセッツ大学の工学博士。 グループメンバーは5人。 サブリーダーは樫原英千世さん。 植松さんと同じ京都大学工学部出身、偶然にも私と同じ豊中高校の3年先輩。 動燃職員は日本原子力研究所東海研究所で照射試験を担当していた河田東海夫さん(元核燃料サイクル開発機構理事)、国際原子力機関
(IAEA) に出向している菊地三郎さん
(元もんじゅ建設所長)。 民間(住友金属)からの出向者で燃料被覆管の開発担当の井上さん、私は「燃料集合体」の試作と試験の担当。 みんな20歳台で若かった。
私が出向中に茨城県大洗町で高速増殖実験炉「常陽」の建設が始まった。 「常陽」に付随して、原子炉で燃やされた燃料集合体や炉内構造物などの健全性などを調査・試験・研究するための照射後試験のため、分厚いコンクリートで放射線遮蔽されたセルと呼ばれる領域や外部からリモートハンドリングする機械
(マニピュレータ) 等を備えた3施設が設置されることになっていた。 そのいずれもが「予定通り」日揮に発注された。
燃料集合体検査施設 Fuel
Monitoring Facility : FMF
照射後試験施設 Alpha-Gamma
Facility : AGF
材料試験施設 Materials
Monitoring Facility : MMF
このそれぞれの施設も動燃側は「燃材グループ」のメンバーが分担した。 とりわけ一番大きい
FMF
の担当者は私だった。 日揮側のプロジェクトマネージャは会社では私の先輩にあたる人だった。 私が客先の責任者だったので、日揮の人たちはさぞいやな気持で仕事しているだろうとは感じていた。
高速増殖実験炉「常陽」は
1977年の臨界に達し、その後も炉心の変更などをして運転を続けていたが現在は停止している。 しかし付随する上記の3施設は現在も東日本大地震の津波によって破壊された東京電力福島第一原子力発電所から取り出したデブリの調査・試験にも使用されていることを知ったのは、この記事を書き始めてからである。 うれしい。
日揮が本命としていた動燃東海の再処理施設も日揮が受注した。 私の1年後輩がプロジェクトマネージャを勤め、最終的に日揮の社長になった。
青森県六ケ所村の原子力発電所の使用済燃料再処理施設の建設は政治的な理由により国策会社の「日本原燃」が事業を進めているが、いつ完成するのか未だに分からない。
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