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慶応1次発表
FROM:M
95/02/20
17:09
題名:慶応1次発表
受かりました!!!!!!
FROM
K
TO:M&A
SUB:おめでとう。
先ず、一次予選通過。
引き続き、気を抜くな。
TO:M&A
SUB:チェチェン紛争
「世界」2月号に法政大学の下斗米伸夫教授がうまく解説していたので、転載する。
これにはメール(連絡)文は入っていないので、関心ある人だけが読めば良い。
☆☆☆☆
チェチェン紛争の原因と行方
● エリツィンの強硬姿勢
ロシア連邦内の南部、チェチェン共和国の内戦をめぐって、ロシアの政治は岐路に立っている。ドゥダエフ大統領派がロシアからの完全独立を唱え、反対派と対立している問題で、これまで項の紛争に不介入の姿勢であったエリツィン政権が1994年12月に非常事態宣言を宣言、ロシア軍を投入したからである。19日には首都グロズヌイへのロシア軍の空爆が始った。チェチェンでは91年8月クーデタの後、89あるロシア連邦の行政単位の中でも、連邦からの分離独立を主張するドゥダエフ大統領派が権力を握り、イスラム教に基づく統治をはかってきたが、反対派との内戦が深刻化していた。12月9日のエリツィン大統領令は、武力解除が受け入れられない場合には武力による解決をはかるとしていた。
この強硬姿勢にたいしては、チェチェンのドゥダエフ派だけでなく、むしろモスクワの中でも、民主派、軍の強硬派や保守的愛国派からもエリツィン大統領に対する批判をうんでいる。その意味では、エリツィンに対して二つの「戦線」が出来ているといえよう。エリツィンの姿勢を支持しているのは、議会ではジリノフスキーの自民党と12月同盟という少数派のみとなった。93年末の旧議会解散から憲法制定を通じて解消されたはずの大統領と議会との対立が今再び表面化してきている。
● チェチェン問題の歴史的背景
このチェチェン問題は歴史的にも根深い。チェチェンを含むカフカスの山岳民族地域がロシア帝国に帰属したのは、実は比較的新しく19世紀からであるが、この過程では、18世紀からイスラム教のマンスルらの抵抗があった。とくにダゲスタンとチェチェンの指導者シャミルハ、カザーク(コサック)などロシア側とたたかい、ロシア軍を悩ました。このカフカス戦争をどうみるかをめぐっては、1920年代のマルクス主義史家ポクロフスキーがその「進歩的」活動を高く評価したが、大ロシア主義が復活したスターリン時代には、「封建的反動」であると攻撃された。そして現代のモスクワでも、「新ポクロフスキー」派と「新スターリン」との対立が新たな装いを持って生じているかにみえる。
チェチェン民族は、ソ連内の自治共和国であったが、第二次大戦中この地区を占領したドイツとの協力を疑われ、1944年スターリンにより追放され、57年になってようやく帰国した。人口120万人ほどのうち、チェチェン人は
81.7
パーセントをしめる。8月クーデタ以前の大統領選挙ではエリツィン支持が8割にのぼった。しかし8月クーデタのなか、地元の共産党政府が曖昧な立場をとったため、イスラム系の「チェチェン民族全人民会議」による権力掌握となった。この組織は1990年11月にできたが、この指導者ドゥダエフは空軍軍人であり、民族追放のさなかカザフスタンで誕生した経歴を持つ。91年10月末にドゥダエフは、多くのロシア人を排除して大統領、議会選挙を実施、「独立」共和国の大統領に就任した。
この地域には遊牧民が多くイスラム的な伝統が強かったが、同時に、ロシアから、グルジア、アゼルバイジャン、イランなどへの通路であり、かつ石油工業などが盛んであることが、この地域の戦略的な重要性をもたらしたとも指摘される。事実、ロシア政府はこの地域の石油精製産業の復興に関心を示している。
● チェチェン独立をめぐって
チェチェン独立の問題をめぐっては、91年11月にエリツィン政権内部で、ブルブリス、スタロボイトワら「西欧」派的なブレーンが不介入と政治解決を主張、「ロシアの統一」を「いかなる代価を払っても」行なうべきであると主張するルツコイ副大統領と対立した。この時チェチェン人のハスブラトフが議長となった最高会議・人民代議員大会も独立を無効と主張した。エリツィンはいったん非常事態を支持する。しかし治安当局は介入失敗による威信の低下をおそれたため、エリツィンは非常事態宣言を撤回した。ルツコイがその後、プリドニェストル、オセット紛争などで「愛国」派として台頭することは有名である。ルツコイとハスブラトフとはこの後の経済問題で同盟したが、チェチェン問題ではむしろ対立していた。
この非常事態宣言はドゥダエフの権威主義的な支配にたいする「民族的」支持を強めた結果となった。主として老人・山岳住民のイスラム勢力がその直接の支持基盤であった。カフカスでも「カフカス山岳民族大会」なども支持に回ったが、他方カザークらとの対立も深まった。その後、ドゥダエフは「イスラム」色を強め、憲法制定でもイスラム中心の姿勢がめだった。「外交」面ではサウジアラビア、北キプロス、ボスニアなどイスラム勢力との連帯が協調された。イスラムは事実上国家宗教となった(『東方
Vostok』94年3月号)。
もっともこれには反発も強く、92年春には反ドゥダエフのクーデタも生じた。この紛争の背景にはイスラム問題とは別に、タイブといわれる部族的な組織があり、その主導権争いからする混乱という側面が強い(『独立新聞』94・9・22)。チェチェンには130ほどのタイブが存在しているが、その結束の堅さは、有名なマフィア的行動にも現れる。
しかしこの事件を契機に、ドゥダエフの支配は強化され、93年春には反ドゥダエフ色の強い議会も解散させられる。こうして、アフトルハノフら「暫定評議会」側との内戦が生じた。これには93年10月事件に関与しながら保釈されたハスブラトフも加わり、ロシア政府の関与を求める。同時に、次第に闘争は激化した。
● 不干渉から介入へ
そうしたなか、この94年7月頃から、犯罪、特にハイジャックなどを契機として、ロシア側に独立の黙許から関与へと姿勢の変化が見られ、「建設的反対派」との対話に踏み切った。その頂点がこの12月の大統領令であり、チェチェンにたいし、ロシア軍が介入することとなり、この勇猛な山岳少数民族との関係は新たな段階に入った。エリツィンは11日、「非合法の軍事組織」にたいし「すべての取りうる手段」をとって秩序を回復することを命じたからである。「ロシアの一体性」と「連邦内の共和国での平和交渉を確保するため」、そして「全面的内戦を回避するため」介入に踏み切ったとしている。
こうしてソ連邦崩壊後3年、分離主義的共和国の内政には不干渉であったロシア政治の方向転換が示されている。この問題を従来担当してきたのは、エリツィン系の有力政治家で、この地域にくわしく、かつ最近はチェルノムィルディン首相と近かったシャフライ副首相であった。彼は関与には積極的であったものの、軍事介入には慎重であった。しかし19月以来の内閣改造で辞任し、かわって今回については、安全保障会議、とくに産業界を代表して11月に訪日したソスコベッツ副首相が担当し、同じくこの地域出身のエゴロフ民族相も副首相へと昇格している。内務省も、この問題に積極的に介入、軍内部で兵を徴募したため、軍の内部で不満があったといわれる。
この介入にたいしては、エリツィン大統領を支持してきたガイダル、ユシャンコフら民主派を中心に、内政不干渉を主張した議会関係者が批判するなど、エリツィン系と「民主派」との亀裂も拡大している。もっともかつて「戦争党」と介入派を批判したコズイリョフ外相等は介入を支持している。他方、軍内部の強硬派グローモフ、レーベディ将軍らは、いまは介入に反対の姿勢を示している。
他方、国際社会はこの国の独立を承認したことはなく、クリントン大統領などはあくまでロシアの内政問題であるとしている。イスラム側、特に同じ地域のイングーシ、ダゲスタンなどでロシア軍に対する抗議活動がある。また、一部イスラム諸国などでは、ドゥダエフ支持にまわる部分もある。もっとも大統領会議の民族問題担当の学者パインは、他のカフカス系地域では事態は平穏であるとしている。
筆者は、93年選挙のおり、この隣接地域にいたが、チェチェン大統領側への共感はあまり示されなかった。この地域でもドゥダエフがエスノ・セントリスティックで、しかもイスラム的傾向を強めすぎているため、余り共感をよばないのかもしれない。
● 「強い中央」の演出
それにしても、モスクワはなぜこのような介入に関与しているのか。一つの答えとしては、エリツィン自身がロシアの崩壊はおわったというように「統合的」過程が進行していること、そして逆説的であるが、93年の公然たる反モスクワや、州の共和国昇格宣言などという形態は取らないものの、地方分権主義が依然として強く、地方からの財政問題が深刻化していることも挙げられよう。いまや地方行政はモスクワの支配が有効でなく、したがって「強い中央」の演出は不可避でもある。
また旧ソ連内部でのロシア主導によるPKO問題が、国際的問題となっているおり、国内治安問題解決はその前提となるからでもあろう。さらに大統領選挙へのながれがでてきたなか、各勢力が「強いロシア」を演出するむきもある。この紛争では、ルツコイなど従来の「国家主義」的潮流が意外に慎重であり、軍内部の強硬派も同様であるのに対し、エリツィン、グラチョフら93年10月事件を担当し「権威主義的統治」に傾斜している部分が積極的である。つまり、エリツィンは、かつてのルツコイの主張さながらに、この危険地域に対する主権の回復、憲法体制の確立を主張しているが、ドゥダエフらはこのロシア連邦への帰属そのものを拒否してきた。
この中で注目されるのは、ロシアの議会が、しだいにエリツィンの、治安機関を駆使しての秘密主義的で権威主義的なやり方に対する批判姿勢を示していることである。93年12月の国民投票で信任されたかたちになっているエリツィン大統領の憲法上の「強い」権限、政府とくに軍事・治安機関に対する大統領の権限は、専制化しかねない危険性が当初から指摘されてきた。議会を強化して牽制する考えがこうして浮上してきたが、チェチェンの問題は、強い大統領権力に対する議会と世論からの統制という問題を提出した。強い大統領を支持してきた「民主派」も、ようやくこの問題に気付いたといえる。ということは憲法体制そのものの見直しである。
しかし、同時に問題になっているのは、やはり93年秋の政争で、いったん鎮静化したかにみえる「地域主義」であろう。93年のような共和国昇格運動は影を潜めたが、しかし財政問題をめぐって「中央」と「地方」の闘争は依然として大問題である。中央政府は、徴税すらままならず、「租税面での革命は成功しなかった」(『イズベスチャ』94.11.1)からである。したがってチェチェンの砲弾は、ちょうど93年10月の最高会議ビルへの砲弾が、地域を狙っていたと言われたのと同様、「地方」に対する強い姿勢を改めて演出しているかに見える。
いまリトワニアにおける91年はじめのゴルバチョフ政権の介入がようやく明らかになっているが、チェチェン紛争は一歩誤れば、ゴルバチョフ末期の民族紛争同様、ロシア連邦の崩壊という議論は誇張であるとしても、エリツィン政権自体の方向喪失にいきかねない。エリツィン政治は曲がり角にあるといえる。
☆☆☆☆
この記事が書かれたのが1月初旬。 それから1ヶ月半も経った今、2月の半ば過ぎなのに事態はより深刻な方へ向かっている。 グロズヌイはほとんど瓦礫の町になってしまった。 先週は一時休戦で双方が戦死者の死体の回収と捕虜の交換をやっている。
今日(2月19日)休戦も続かずまた、戦闘が開始されるようだ。
クリントン大統領はモスクワでのサミットへの出席をこれを理由に断った。
TO:M&A
SUB:喜びの中で
さて、おそらく今頃はC
(*次男のスキーツアー)
の出発であたふたする中、こちらへのメールを書いている頃だろうと想像します。
そちらが送信する前に、いつもの通り、こちらから。
この週末には建設部からIsh君が現場駐在で来た。 もう一人、品質保証の監査でOnさんが脳梗塞で出られなくなったので代わりのShさんが来た。
Ish君は面識がないが国際事業本部の現場でよく教育を受けている印象を受けた。 この人が私の仕事のあとを継ぐことになる。 2月末までにプロジェクト管理工程表(Project
Control Schedule)を作り上げ、それを客先に提出して、それを基に、このプロジェクトの進捗度(Progress)を計算して、毎月報告すると同時に、さらに客先への毎月の出来高請求を行なうことになる。 このプロジェクトが昨年4月に始まりもうすぐ1年というのに、これが整っていなかったので、これまで、1度も請求が出来なかった。 すなわち、入金すべきお金が入ってこなかった。 これは日揮が困るだけでなくお客も困る。 ビジネスは最後はやはりお金が入ってこなければ何にもならないのに、このプロジェクトのメンバーにはその感覚がなかった。 また、工程が遅れに遅れて、客先がかんかんになっている。
ということで、2月末までは作業がある。
そのあと、2月末現在の工程進捗データを各マネージャからもらって、その時点での工程の調整を(個々の作業を遅らしたり、早めたりして、全体がうまくバランスするようにするための作業)し、プロジェクト全体の進捗度を計算し、そしてそれを基に請求額をはじき出し、初めての請求書を作り上げる。 これが3月の第1週の作業。
そのあとは3月15日に、この報告を基に客との定例月間進捗検討会議(Monthly
Progress Review Meeting)と続いて、以後毎月これが繰り返される。
したがって、今KNさん(*私の上司)には3月第1週の作業が終わったところで一旦帰国して、横浜で私から、本部への報告をし、1週間位滞在して、Monthly
Meeting
に間に合うようにこちらに戻る案を提案しようと思う。 そのあとのことは、引き継ぎがうまく行けば、早く終わるし、まだがたがたするようならそれを片付けてから、ということになる。
もう一つは、これは横浜での報告や相談にもよるが、私が今回の限られた仕事だけでなく、それ以外のプロジェクトへの参画が必要だと上の人が判断したら、状況はまったく変わってくる。 私自身は今回のように、このチェコでも、アメリカでも、台湾(台湾にも見積りしているらしい)でも海外のプロジェクトで私の専門が生かされるのなら、単身赴任でも大歓迎。
この辺はHiさん(*プロジェクトの状況を調査するために来た副本部長)が帰国して原子力事業本部や国際事業本部のマネジメントと相談してプロジェクト体制建て直しのための本格的な対策を立てる作業の中から何かが出てくると思う。
中途半端な時間になったが今日の定期便です。
Dobrou
noc.
FROM:M
95/02/20
21:56
題名:20日(その2)夜8時半
御想像のとおり、20分ほど前に
(*スキーツアーの出発する次男を車で)
C
を送って帰ってきたところです。 横浜まで送る事になったので、帰宅してすぐに夕飯の支度、食事の後片付けして送って行くという過密スケジュールをこなしました。
仕事から帰宅したら、待ちに待った (*長男Kの慶応の1次試験の)合格通知が来ていました。 午後は、いつ連絡が来るかときがきではなかったので、会社で聞けなかった分、喜びは大きかったです。 まだ、あとが続くのですが、取り合えず一つクリアーできたのはよかった!! これで、次の早稲田の試験が落ち着いて出来るでしょう。
仕事が順調にいっているようですね、ご苦労様! 帰ってくるころは、Kの進路も先が見えているといいのですが.....
どんな仕事にしろ、Tさんが楽しんで出来る仕事が出来たらいいですね。 単身でもいいなんて、Tさんも変わったのね。 まあどちらにしても、お帰りを待っています。
3月1日は、(*Kの高校の)卒業式です。 あと、10日です、早いものです。
Cは、張り切って出かけました。但し、今夜明日と大雪になる気配で心配していました。 好天で滑りたいと望んでいたので、さてどうなるでしょう。 さっさと自分で支度して、子供達も本当に手がかからなくなったものです。
今日は、なんとなく肩の辺りが軽くなったような気がします。 それでは、取り留めがない定期便ですが、これで送ります。
from
M,
p.s.
Aちゃん、送金は明日します。 では、ね!!
FROM:A
95/02/20
22:24
題名:明日はテスト
今日、研究室が決まりました。 草地学講座の草地利用学研究室です。 教授の専門は家畜生理学で、助手の先生の専門がサイレッジらしいです。(逆かもしれないけど) でも
まあ、研究室のテーマは牧草の有効利用です。 知っている先輩が2人いるので結構心強いかな。 実際に配属されるのは3年生になってからです。
明日は分析化学と環境植物学のテストがあるので勉強しなければいけないのだけど、
どうしてもわかりやすい環境植物学の方に偏ってしまって、、、 うーん、やっぱり化学
はわからない。 どうしましょ、 なんていっても勉強するしかないですね。
質問というより相談なのだけど、ラップトップのパソコンでIBMと互換性があっていいのってなんでしょう。 はっきり決めたわけじゃないんだけど、どうも研究室を見て
来たら一応机はもらえるのだけど、小さくてこのコンピューター(*アメリカで購入したDesktop
= Austin 386)
を持っていける感じではないのです。 で、やっぱり学校でコンピューターが使えないのじゃ意味がないし、う
ーん、、、 どうも忙しくてチェコはどうなるかわからないし、もしなんなら旅費になるはずだった成人式のお祝いに自分でお金を足したら、ラップトップのパソコン買えるかな、などと考えているのですが、、、 生協でなんとなく見て見たら、IBMの
ThinkPad の 2 1万のが、16万になっていました。 まあ、でもこの辺はお父さんの方が詳しいし、もし
今の Austin
で十分だと言われるのなら、無理して学校に持って行けないわけじゃないかな(ちょっときついけど)などと考えています。 どうぞご指南ください。
今日はそんなわけで、チェコと横浜は別メールです。 さあ、テスト勉強しよーっと。
それでは。
LOVE,
A
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